カゼを引くのは怖い
志知 均 (しち・ひとし)
2014年1月
新年早々、当地(ミシガン州)は大寒波の到来で、日中気温マイナス20度C,積雪は20センチ以上あった。シーズン契約で雇っている除雪サービスは午後遅くまで来ないので、車が道路へ出られるように毎朝ドライブウエーの一部を除雪した。それに停電と暖房装置の故障が加わってストレスになり、数年ぶりにカゼ(風邪)を引いてしまった。幸い一週間ほどで全快したが、カゼとはずいぶん曖昧な病名だなと思った。カゼ、すなわち空気が通る気管の病気というのが語源らしい。従ってハナカゼ、ノドカゼ、インフルエンザ(フルー:Flu)など、呼吸系疾患は全てカゼということになる。
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予防ワクチンの接種 |
最近では『フルー』と『カゼ』をマスコミは区別しているが、一般には混同されている。初期症状としてカゼは熱は出ないが、くしゃみや鼻水が出るのに対し、フルーは鼻水は出ないが発熱することが多い。カゼもフルーもヴァイラス病(virus:日本では、ウイルスとかビールスと発音している)で空中感染するので、発病した人に近寄らないとか、よく手を洗い、うがいをするとか、予防知識は広まっている。この小文ではカゼやフルーのヴァイラスについて少し詳しく書いてみよう。
フルーとは
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フルー・ヴァイラス |
まずフルーについて。フルー感染で死亡する人はアメリカで毎年5万人、世界中では50万人といわれ怖い病気である。昨年春、上海で131人が感染し、26人が死亡したフルー・ヴァイラスA(H7N9)が、1月になってまた活発になったようで警戒されている。また、最近中国へ旅行したカナダ人が、帰国後フルー・ヴァイラス(H5N1)に感染していることが判り、ニュースになっている。中国暦の元旦は、今年は1月31日で、正月前後の期間に36億人以上の中国人が里帰りなどで移動するそうだから、これらのヴァイラス種によるフルー流行が始まったら大変なことになる。(中国旅行は控えたほうがよさそうだ!)
ここでフルー・ヴァイラスの命名について簡単に説明しておく。フルー・ヴァイラスAは、単鎖RNAが遺伝子で、8つの遺伝子グループに分けられている。グループ4は、感染に主役を果たす赤血球凝集タンパク質(hemagglutinin, HA)の遺伝子を、またグループ6は、多糖類加水分解酵素(neuraminidase, NA)の遺伝子を含んでいる。HAもNAも、ヴァイラス表面に存在し抗原性を示す。現在までにHAで16個、NAで9個の抗原性の違うものが見つかっており、それに基づいて多数の変種ヴァイラス(H1N1、H5N1など)が命名されている。例えばH5N1は、HA遺伝子の5の領域と、NA遺伝子の1の領域に変異があることを示す。
フルー・ヴァイラス感染は、HAが呼吸系気管細胞の表面にある受容体(シアル酸、sialic acid)に結合することから始まる。HAは更に細胞内粒子体(endosome)とヴァイラスを融合させ、ヴァイラスRNAが細胞内へ取り込まれるのを助ける。一方、NAについては、細胞表面粘膜にはシアル酸が大量存在するので、それにヴァイラスが絡み取られて動けなくならないよう、NAはシアル酸を分解する。
過去のフルー流行として、1913年のH1N1(スペイン風邪、Spanish flu)、1957年のH2N2(アジア風邪、Asian flu)、1968年のH3N2(ホンコン風邪、Hong Kong flu)、2009年メキシコから世界中に広がったH1N1などがある。これで、H1N1が1913年から100年近くたってぶり返したことが注目され、冷凍保存されていた1913年流行のH1N1と、2009年流行のH1N1が全く同一かどうか最近比較された。その結果、同一ではないが極めて類似していることが判った。HAやNAの変異は構造のあちこちでおき、抗原性を変えた新種になる。そのため人は抵抗性を失う。1913年のH1N1に対して抵抗性をもった人は2009年には殆ど死亡しているから、同じような構造に変異したH1N1新種に対して人は抵抗性がない。このように回帰的に変異するのは進化するためのヴァイラスの『知恵』であろうか?
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スペイン風邪のヴァイラス |
フルー・ヴァイラスAは、ブタ、イヌ、ニワトリ、ヒトなど、多種の動物から分離されているが、元々、トリが主要なヴァイラス源と考えられている。トリだけが感染すると思われた変種が、人にも感染するようになるのは、HAやNA遺伝子の変異で、感染力だけでなく種特異性も変わるからである。
カゼとは
次にカゼの話に移ろう。カゼ・ヴァイラスの正しい名称は鼻カゼ・ヴァイラス(rhinovirus)である。このヴァイラスはヒト固有のヴァイラスで、フルー・ヴァイラスのように、他の種の動物から由来したものではない。元々、腸管に感染(寄生?)していたヴァイラス(enterovirus)が変異、進化してできた。そのため性質が似ている。(今度のカゼは鼻や喉ではなくオナカにきたと思うことがあるが、それはenterovirusのせいである。)
カゼ・ヴァイラスは、僅か10個のRNA遺伝子をもつヴァイラスで、遺伝子の数が少ないので、増殖できる環境は、鼻や喉の上皮細胞に限られる。遺伝子が一つでも変異すると、ヴァイラスとして一巻の終わりになることが多いから、フルー・ヴァイラスに比べて病原性は弱い。それでも抗原性の異なる変種が100ぐらい存在する。(大別すると、HRV-A, HRV-B, HRV-C の3種類)
主要変種であるHRV-Aヴァイラスの大部分は、鼻、喉の上皮細胞表面にあるICAM-1と呼ばれる受容体に結合して、細胞内へ侵入し、増殖する。厄介なことにICAM-1受容体は、免疫食細胞(macrophage)表面にも存在し、ヴァイラスはそれに結合して、免疫抑制を引き起こす。即ち,抗体生成や記憶細胞の増殖を阻害する。同じカゼ・ヴァイラスに繰り返し感染したり、カゼにかかって手当をしないと、フルーその他のヴァイラスや肺炎菌に感染し易くなるのは、このような免疫抑制のせいである。
治療については、効果は完全でないにしろ、フルー・ヴァイラスのワクチンは毎年作られ予防接種に使われているが、鼻カゼ・ワクチンは開発されていない。その理由の一つは感染しても早めに休養を充分とり、売薬その他で手当てすれば全治するからである。
その他、悪性ヴァイラスについて
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SARS患者のレントゲン写真 |
この小文では詳しく触れないが、2003年に中国、香港から、ヴェトナム、カナダ、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリピンと広がって8,000人以上が感染し、2,800人近くの人々が死亡したSARS(severe acute respiratory syndrome)のことを覚えておられる方もあろう。病原体はコロナ・ヴァイラス(coronavirus, 右下の写真:形が光環に似ていることで命名)で、
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コロナ・ヴァイラス |
フルー・ヴァイラスとは異なるが、呼吸系疾患を起こすことや、元々、コウモリが保有していたヴァイラスが変異してヒトへの感染性を獲得したことなど、フルー・ヴァイラスに似ている。広い意味でカゼ・ヴァイラスである。
このような予想もしない悪性ヴァイラスの流行は今後も起きることが十分予想される。カゼぐらいと軽く考え、仕事の無理をしたり、飲酒、喫煙も止めない人は、啄木の詩、「そんならば命が欲しくないのかと、医者に言われて黙りし心」をじっくり味わってほしい。カゼは万病の元と言われるくらい怖いのだから.
厳寒の折、おカゼを召さぬよう、ご注意あれ。
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