2014年1月18日土曜日

元日本兵、数奇な生涯

小野田少尉、戦後の戦い

その人の名は小野田寛郎(おのだ・ひろお)、大正11年(1922)和歌山県海南で生まれた。旧制中学を卒業し、ある貿易会社の中国支店で勤務していた。昭和17年(1942)、20才になったところで大日本帝国陸軍に徴兵され、選ばれて陸軍中野学校で情報作戦の訓練を受けた。日本は既にその前年、アメリカを敵として戦っていた。

徴兵された新兵の整列

南太平洋の諸島を制覇していた日本軍は、アメリカの攻撃に耐え切れず、ガダルカナル島を始めとし、駐屯していた島々は敗退の一途をたどっていた。昭和19年(1944)、アメリカ軍のフィリッピン侵攻を守るべく、小野田が属する部隊はフィリッピン群島中の小島、ルバング島(Lubang)に派遣された。その島は、フィリッピンの首都マニラ市から120キロ程南西に当たる位置にあった。小野田の任務は、アメリカ軍の動静を監視して報告することだった。

その数ヶ月後、広島、長崎への原爆投下に続いて日本は、無条件でアメリカを始め連合軍に降伏した。

しかし小野田少尉を含め、隊内で4名は日本の敗戦が信じられず、潜伏して抗戦を続ける覚悟を決めた。他の3名は、赤津上等兵、島田伍長、小塚二等兵らであった。この4名が如何にして生存したかの詳細は、別の機会に譲るとして、森林に隠れ、夜陰に乗じて近隣の農場から作物などを盗むかして食いつないでいたようだ。その間、土地の住民に見つかり、『敵』と思い込み何人か射殺するという事件も起こした。しかし、赤津上等兵と島田伍長のどちらかはフィリッピン軍に投降し、他の一人は昭和29年(1954)に射殺され、小塚二等兵は昭和47年(1972)にこれまた射殺され、小野田少尉だけが生き残った。

独りになった小野田は、頑なに山中の森林に潜み、上司からの指令を待ち続けていた。一方、フィリッピン軍や政府は、拡声器で呼びかけたり、投降を勧告する文書を散布したが小野田は頑強に応じなかった。ここで特筆に値いする事実は、小野田が受けた諜報員教育では、大多数の日本兵が行った無謀な自殺的突撃は禁止され、できる限り生存することを旨としていたことである。

小野田のライフルを持つ鈴木(左)と小野田
昭和49年(1974)、鈴木紀夫(すずき・のりお)という大学を中退し世界旅行をしていた若い男性が、小野田少尉の話に強い関心をもち接触を試み、その努力の甲斐あって、同年2月20日、小野田は鈴木を信頼して面接に応じた。応答を重ねる毎に二人の間には徐々に友情が生まれ、鈴木小野田の心情を理解した。一旦帰国した鈴木は政府に要請し、小野田の元上官だった谷口少佐を探し出して事情を説明し、小野田の実兄(弟?)トシロウも加わり、最終的に小野田寛郎少尉谷口の『降伏命令』を遵守し、フィリッピン政府に投降した。その時点で、小野田は所有していたライフル、500発の銃弾、数個の手榴弾を放棄提出した。

大統領に軍刀を献上する小野田
また、その他に所持していた軍刀は、当時のフィリッピン大統領フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)に降伏の意思表示として献上した。かくして日本が降伏した昭和20年(1945)から昭和49年まで、小野田寛郎少尉の29年余りに及ぶ『戦後の単独戦争』に終止符が打たれたのである。

帰国した小野田は、報道陣に囲まれ、その異常な体験は『軍人の鑑(かがみ)、命令に忠実だった英雄』として祭り上げられた。また、その15年遡る年に、自分が『戦死』と記載されていたことを知った。その時小野田は、涙を流し声を上げて慟哭したという。
20才の新兵小野田と、32年後 投降した52才の小野田
戦後の目覚ましい復興を見聞し驚いた小野田は、潜伏中の時とは違う意味で『日本の敗戦』が信じられなかった。それでも生活が慣れるに従い、自分の生存を記録した『たった一人の30年戦争(英訳本の題名 “No Surrender: My Thirty-Year War” )』という自伝を書いた。その出版の後ブラジルに移り、牧場の経営にたずさわり、間もなく結婚した。

ルバング島を訪れた小野田
平成8年(1996)、小野田はルバング島を再訪問し、公式に住民たちに謝罪と感謝の気持ちを伝え、地方の学校に1万ドル寄付した。当時の知事ジョセフィン・ラミレツ・サトー(Josephine Ramirez Satõ)は公式の席上で、「この地方の住民は、あなたのした行為(住民を殺傷した)は理解し、とっくに許しています。小野田さんを通じて日本との友好関係が良くなりますよう」と述べた。とはいうものの、まだ多くのフィリッピン人達は戦争中、日本軍隊が汚名を残した暴虐を忘れてはいない。

特に、小野田に射殺された現地人たちの内、一人の男の妹、クリスチナ・エヴァンジェリスタ(Christina Evangelista)は、未だに恨みに思っている。(以上、高橋経著『A Passage Through SEVEN LIVES: The Pacific War Legacy』の『戦後の章』から抜粋)


英雄の死
[1月17日付け、毎日新聞の記事から] 旧日本軍の陸軍少尉として派遣されたフィリピン・ルバング島の山中で戦後も昭和49年(1974)まで約29年潜伏した小野田寛郎さんが、東京都内の病院で16日に亡くなった。91歳だった。葬儀は近親者で営む。自宅は中央区佃1の10の5。
(中略)
自宅前で取材に応じた親族によると、年末にブラジルを訪問して帰国後、体調を崩して今月6日に入院。病床でも「3月に講演の予定があるので、やらなくては」などと前向きに語っていたという。
戦争の犠牲者たちは、、、
編集後記
小野田寛郎が単独抗戦で、29年余りに及び森林中に潜伏し、生き延びた話を見聞する度に、わが身に置き換えて考え、私の胸は痛む。20才で徴兵され、32年間兵役に就き、52才で武装を解除して帰国した、という半生を考えただけでも、一人の人生が社会人として成長する大切な時期を喪失したということは大変な犠牲である。
小野田と似たような体験をサイパン島で28年間独りで生存した横井庄一(よこい・しょういち:平成9年、82才で死亡)についても同じ思いがする。
彼らは「何のために」青年期や壮年期を空しく喪失してしまったのだろうか。それは「国のため、天皇のため」の愛国心、忠誠、、、言い換えれば。『天皇』を含む『国』が起こした『戦争』に『自己を犠牲にした』のである。こうした人達を『軍神』と崇め、『英雄』として讃えることに敢えて反対はしないが、同時に湧いてくる割り切れない『何か』が禁じられない。
◆ 戦争で犠牲になったのは、上記の二人や戦死した何百万人もの軍人だけではない。
◆ サイパン島で、敗北の恐怖から逃れるため、崖から身を投げて自殺した何千人という老若男女の民間人たちのことは忘れられない。
◆ 沖縄で、多数の民間人が殺され、百人余りの女子学生『ひめゆり部隊』が、これも敗北の恥辱を避けるため刺し違えて命を断ったことも忘れられない。
◆ 日本列島中、大小都市の数々が空襲で家を焼かれ、何百万人もの身を焼かれた市民のことも忘れることはできない。
◆ 広島と長崎に落された原爆で、一瞬にして消滅した何十万人という被爆者や、生存者たちが苦しんだ後遺症のことも忘れられない。
◆ 戦争が終わっても帰国できずに満州その他の僻地に取り残され、帰国する術を失った人々のことも忘れられない。
『戦争』は罪悪の中でも最悪の人災だ。
皮肉にも、敗戦のお蔭で生まれた新日本新憲法に謳われた『日本は永遠に戦争を放棄する』という一条が光り輝いている希望だ。これこそ、命を懸けても守り抜かねばなるまい。
高橋 経

1 件のコメント:

  1. 戦争の罪悪と、平和の重要さはどれほど強調しても、過ぎることはありません。

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