多くのドラマと感動を残した2014年ソチ、オリンピック(Sochi Olympic)も終った。これからパラリンピック(Paralympic)の開幕だが、先ずは日本を背負って活躍した選手に感謝の言葉を贈りたい。
JOCがある岸記念体育館 |
これに対し「Olympic代表選手だからといって、日本を背負う必要はない」 http://blogos.com/article/79976/ と言うブログ記事を書いて反論した町村泰貴(まちむら・やすたか)北大教授は「害悪を撒き散らす言論」とまで竹田発言を非難している。
(1)選手に「日の丸を背負った」だの、「国の代表」だのと押しつけるな。
(2)「メダルは噛むな」負けたのに「ヘラヘラと楽しむな」等の注文は余計なお世話だ。
(3)こんな雑音を気にして、選手が五輪を楽しめなかったら台無しだ。
(4)敗北を喫しても、楽しめたからよかったとニコニコ笑って全く問題ない。
その主張が保守と言うより「前世紀の遺物」と言った方が相応しい事が多い竹田発言が、「国歌斉唱」とか「直立不動」等と言えば、町村教授が「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に襲われる事は理解できないことはないが、今回の竹田発言の主張は当たり前の事を言ったに過ぎない。現に、NBCが全米で放映した各種競技のメダル授与式を見ても、殆ど全ての選手が竹田発言で求めていた4条件を守っているだけでなく、インタビューを受けた選手は勝敗や国籍に関係なく、口を揃えて「祖国を代表できた名誉と幸運」を誇らしげに語っていた。
驚いたのは、オリンピック開催寸前まで、90%以上が無精髭のままでプレーしていたNHL(北米プロ・アイスホッケー・リーグ)の選手たちが、出身国の代表としてプレーする時点では、殆どが髭を剃り落としていた事だ。でも『全員』でなかったところを見ると、上からの強制されたのではなく自発的に髭を剃って祖国へ敬意を表したのに違いない。
オリンピックについて色々な意見が出ることは良い事だと思うが、町村教授の反論とそれを支持するネットの反応を見ると、『一部日本の常識が、世界の非常識』になりつつある事を実感する。色々文句はあっても私が誇ることに変わりない日本が、町村教授には『祖国を代表する事』が負担に思えるほど恥ずかしい行為なのだろうか?
町村教授が極端に嫌う『代表』だが、我々は無意識のうちに「自分自身」、「家族」、「会社」、「故郷」、「国」など常に何らかを代表して生活しており、それが国の伝統、文化、世相を作り上げて来たのだ。
2008年に起きた四川大地震で、日本から派遣された60人の救援隊が一人の生存者も発見出来ず落胆して帰国したのに対し、中国人母子の遺体収容に当たった救援隊員が直立不動の姿勢で遺体に敬礼する映像が流れると、中国全土で日本への賞賛と感謝の嵐が起こったが、これも救援隊員の行動が日本を代表していると思われたからである。下掲の動画をクリックして見て頂けば、万言を費やすまでもなくその誠意溢れる純粋な行動の持つ感動が強く伝わってくる。
東日本大震災で世界から賞賛を浴びた一般日本人の態度や行動も、海外から見れば日本を代表していると映るのは当然で、その場に居なかった私まで、日本人として誇りに思い、賞賛の恩恵に浴した。
又、「選手が勝利にこだわり、オリンピックを楽しめなかったら台無しだ」とと言う反論にも賛成できない。(編者加筆:負けたら悔しいと思い、次の機会に取り戻そうという気概が大切で、楽しむことはお預けに。)
今のオリンピック運動を「参加する事に意義あり」と言ったクーベルタン男爵(Baron, Pierre de Coubertin)時代のアマチュアの祭典だと思っているとしたら、とんでもない勘違いで、今や勝敗を争ってこそのプロの一大祭典である。「より速く、より高く、より強く」を目標とするオリンピック競技は、順位を付けないと聞く日本の小学校の運動会と違い、選手の究極の目的は勝利にあり、その結果は名誉以上に選手の経済的将来に大きな影響を与える。
極貧国ジャマイカ出身、短距離走者のフセイン・ボルト(Usain Bolt:右の写真)は、オリンピックでの優勝を機にプーマ社(Puma)からの年間9億円強のスポンサー料を筆頭に、毎年巨額の収入を得るようになり、現役生活を続けながら20億円を超える純資産を活用して故国の各地に陸上競技の練習場を整備するなど、自分の幸運を社会に還元しているのもその一例だ。
アメリカンフットボールの伝説的な名コーチで偉大な教育者でもあったヴィンス・ロンバルデイ(Vince Lombardi:左の写真)は、数々の名言を通じて『負けじ魂』が人生の上で重要であることをを説いたが、その一つに「努力をすればするほど勝利を獲得したくなくなるのが当たり前で、簡単に敗北を受け入れる人間には勝利は訪れない。勝利が全てでないと言うなら、スコアーをつける意味がない」と断言している。
手段を問わぬ「勝利至上主義」は排斥すべきだが、オリンピック選手は国単位で選抜される以上、『国』と『選手』は切っても切れない相互責任の関係で結ばれており、「国を代表するなどと言う下らぬ負担は忘れ、勝負にこだわらずオリンピックを楽しめ」と言う町村教授の『結果責任無用論』は通じない。この様な『戯言(ざれごと、たわむれごと)』が賛同されるのは、教授が属する日本の国立大学くらいなものであろう。
と言うのは、自らの結果責任を背負いながら身分保証もなしに競技に励む選手と異なり、日本の国立大学は、経常運営費の大半を国家財政に依存しながら、いったん配分された経費の使途については教育研究の水準や内容の如何にか拘らず、公権力の干渉も受けず、究極の『出資者』である納税者に対する説明責任も果たさずに教授の身分だけが保証される『無責任天国』だからである。
オリンピック選手の究極の目的が『勝利』であっても、それが全てではなく、誠実な態度と最後まで諦めない気概も求められる。
メダルを逃した浅田真央選手の場合、演技を終えた直後から全世界、特に現在日本と厳しい関係にある中国からまでも「あきらめない五輪精神を示した」、「表彰台に上れなくても、あなたの精神に敬服します」などの最高の賛辞が多数寄せられたと聞く。仮に浅田選手が町村教授の反論に従い、ヘラヘラ笑いながら「勝てなかったけど、のびのびとソチ五輪に参加できて楽しかった」と言ったとしたら、この様な感動の嵐は起きなかったに違いない。
「結果を伴わない努力を、無駄と言う」と言ったのはチャーチル(Winston Churchill)だが、メダルに加えて「国を背負う」誇りと最後まで勝負を諦めない気概を持って正々堂々と闘い、世界に感動を与える結果を出した日本代表選手に勇気付けられた2014年ソチ、オリンピックであった。
オリンピックは国力を競い合う祭典であることは疑う余地がありません。北村さんの思想には反論の余地は全くありません。ただ、日本の国歌が未だに『君が代』なのが気がかりですが、これは機会を改めて論議しましょう。
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