2014年2月23日日曜日

マラソン走者、トシコ・デリアの伝記

フランク・リツキィ(Frank Litsky)の報告から抜粋
NYT紙、2014年2月20日

トシコ・デリア(Toshiko d’Elia)は、日本で生まれ育ち、荒廃した戦後の貧しい青春を生き抜いて渡米し、44歳から始めたマラソンで数々の栄冠と名声を獲得した。高齢で始めたスポーツで記録を更新した数少ない女性だったが、昨2月19日、ガン性の脳腫瘍で享年84歳で他界した。ニュー・ジャージー州、リッジウッド(Ridgewood)在住。


左から、夫のマンフレッド、トシコ、娘のエリカ:photo: Lonny Kalfus


岸本トシコは、昭和5年(1930)1月2日、京都で生まれた。敗戦の昭和20年、15歳だったトシコは荒廃した焦土で衣食住いずれも不足で空腹続きの青春を、「もし鳥のように羽根があったら飛んで逃げ出したい」ような夢を見ながら生き延びていた。ふとしたことで、ローマン・カソリックの尼僧院で通訳の仕事をしていた時、唖の若者が梯子から落ち、その痛みに堪え兼ねて悲鳴を上げた。それを見て、トシコは唖が声を出したことに打たれ、唖の人々に発声を教える仕事をしたいと思い立った。

トシコは、津田女子大で聾唖者のための特別教育を学び、フルブライト奨学金を獲得してシラキュース大学(Syracuse University)へ留学し、視聴学の修士学位を取得して卒業した。結婚し、娘のエリカ(Erica)が生まれたのはその頃で、夫が去ったのはその直後であった。

トシコは、一旦帰国したが、再渡米してホワイト・プレインズ(White Plains)のニューヨーク・スクール聾唖部門(the New York School for the Deaf)で教鞭をとっていた。トシコは、その頃出会ったマンフレッド・デリア(Manfred d’Elia:上の写真左 )と意気投合し再婚した。
二人は登山に熱中し、アメリカ中の山々を始めとし、富士山、イランのダマヴァンド山(Damavand)、スイスのマッターホーン(Matterhorn)、などを次々と征服した。一度スイスのモンテ・ロサ(Monte Rosa)に登る時、足を滑らせて割れ目に転落した。幸い同行者に救われ、再び登り続けて登頂に成功した、というエピソードも残っている。

マンフレッド・デリアはクラシック・ピアニストでピアノ教師の傍ら、彼自身資格充分の走者で、またニュージャージー州の文化財保護運動家であり、ハイキング・グループや、北部ニュージャージー州オペラ・ソサイエティ(the Opera Society of Northern New Jersey)の創設者でもあった。彼は2000年に亡くなった。

トシコマンフレッドが毎朝5時に起きて2キロ近く走っていたのは、登山に備えての訓練であった。その時点では、二人ともマラソンに参加するつもりは全く無かった。

マラソンに参加したのは偶然のきっかけだったのである。それには、娘のエリカ(上の写真右)が一役買っていた。エリカは当時リッジウッド高校(The Ridgewood High School)の陸上競技女子部のキャプテンで、春季の長距離レースの準備をしていた。その高校生たちの競技に母親のトシコを走らせてしまったのである。結果はエリカが1位、トシコが3位でゴールインした。

トシコが初めてマラソンに参加したのは1976年、凍てつく道路に雪が降りしきるニュージャージー州であった。彼女はコースの折り返し地点まで走って止めるつもりで、夫の友人が迎えにくるのを待っていたが一向に現れなかったのでレースを続けることにした。ゴールに入った記録は、待ち時間も含めて3時間25分で、充分ボストン・マラソンに参加する資格が取れた。翌1977年まで、トシコは準備訓練として週に150キロ走り、40歳以上部門のレースを含め、数々の長距離レース競技で優勝した。

トシコは、体重45.4キロ、身長153センチという小柄だったが、彼女の脚力はずば抜け、耐久力が優れていた。49歳でボストン・マラソンを完走した時の記録は2時間58分11秒、そして間もなく子宮頚管部にガンが発見された。8ヶ月後、彼女は練習を再開し、更に8ヶ月後、スコットランドで開催された世界マスターズ・チャンピオンシップに挑戦し、2時間57分20秒という50台以上の女性部門では初めて、3時間を切る記録を作った。

長年、トシコは年令別グループで数々の記録を破ってきた。ニューヨーク・ロード・ランナーズ(New York Road Runners)のメリー・ウイッテンバーグ会長(Mary Wittenberg)は、トシコを『我が走行路の女王(our queen of the roads)』と評して絶賛した。

娘のエリカの談話によると、トシコは78歳の時に心臓の手術を受けたが、走ることを諦めずに続けていた。また、毎朝7時にプールで、2キロ近く泳ぎ、45分程水中で走っていた。その後ヨガのクラスへ行ってから帰宅し、昼食を摂って一眠りし、午後は5キロから8キロ走るのが日課だった。この日課は、昨年の暮れに脳腫瘍が診断されるまで欠かさなかった、とのことだ。


トシコは、娘のエリカ、そして孫3人、養女が2人、養孫4人の遺族を残して逝った。

1 件のコメント:

  1. 今年に入ってから訃報が続いたので、今回の公開をためらいましたが、トシコの生き様はまさに『不撓不屈』、多くの人々に知ってもらいたく、公開に踏み切りました。余談ですが、彼女は私とほぼ同年です。

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