Shirley Temple Black; 1938〜2014
シャーリー・テンプル(Shirley Temple Black)は1928年(昭和3年)4月23日生まれ。3歳で子役映画スターとして銀幕に登場し、唱えて、踊れて、演技ができる、という三拍子揃った才能を十二分に発揮し、1930年代、人気女優のトップに立ち続けた。『銀幕』とは死語になったが当時はシルバー・スクリーン(silver screen)の直訳で、まだカラー映画がなかった時代である。サイレント映画からトーキーになり、唱って踊れるミュージカルが売り物のテンプルにとっては正に水を得た魚なのであった。(下のビデオは、1935年作品、『われらの少女[Our Little Girl]』1時間5分)
昭和7年から日米開戦の直前、昭和15年頃まで、日本にも続々と輸入され、全国的な人気を獲得した。
1939年、カラー映画が徐々に勃興し、テンプル映画も負けずにカラー映画に転向した。一方で、ディズニーの長編アニメーション『白雪姫(Snow White)』、南北戦争を背景にした『風と共に去りぬ(Gone With the Wind)』、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い(The Wizard of OZ)』などが、次々と評判になり、テンプル物は次第に影が薄くなっていった。
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左から:1932年子役全盛時代;1950年引退;1969年政界入り;1990年代各界の役員;2013年受賞多数 |
テンプル自身も10代となり、往年のあどけなさから抜け出し始め、作品の本数も次第に減り、1950年、22歳で映画界から引退してしまった。その後1958年、芸能界に返り咲き、テレビ番組の司会やゲストにも時々登場していた。
テンプルの中年時代は政界に関与し共和党に属し、ニクソン大統領に指名され国連総会(United Nations General Assembly)の代表委員となり(1969)、アメリカ大使としてアフリカ、ガーナ(Ghana)の米大使館に派遣され(1974~1976)、在任中外交儀礼の長を務め、後に、プラハ市(Plague)、チェコスロバキアの米大使館に転勤し(1989~1992)、業務を遂行していた。
また、ウォルト・ディズニー社(The Walt Disney Company)、デル・モンテ食品会社(Del Monte Foods)、その他の企業や、ユネスコ(UNESCO)、ナショナル野生動物保護連盟(National Wildlife Federation)の役員も務めていた。
数々の受賞の内には、ケネディ・センター(Kennedy Center Honors)名誉賞、2005年、スクリーン俳優連盟の生涯達成賞(Screen Actors Guild Life Achievement Award)、などが含まれている。
去る2月10日、85歳で他界した。死因は自然死となっている。遺族には、3人の子達と孫や曾孫がいる。冥福を祈る。 編集:高橋 経
テンプルの全盛時代に私は育ちました。彼女の映画は2本くらい観た記憶がありますが、当時の私はチャップリン、フェアバンクス、ターザン、など男性的な冒険映画に熱中してたので『女の子』の映画には興味がありませんでした。それでも、テンプルの才能は高く評価しています。
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