2014年2月15日土曜日

シャーリー・テンプル、変転の生涯

Shirley Temple Black; 1938〜2014

シャーリー・テンプル(Shirley Temple Black)は1928年(昭和3年)4月23日生まれ。3歳で子役映画スターとして銀幕に登場し、唱えて、踊れて、演技ができる、という三拍子揃った才能を十二分に発揮し、1930年代、人気女優のトップに立ち続けた。『銀幕』とは死語になったが当時はシルバー・スクリーン(silver screen)の直訳で、まだカラー映画がなかった時代である。サイレント映画からトーキーになり、唱って踊れるミュージカルが売り物のテンプルとっては正に水を得た魚なのであった。(下のビデオは、1935年作品、『われらの少女[Our Little Girl]』1時間5分)



昭和7年から日米開戦の直前、昭和15年頃まで、日本にも続々と輸入され、全国的な人気を獲得した。

1939年、カラー映画が徐々に勃興し、テンプル映画も負けずにカラー映画に転向した。一方で、ディズニーの長編アニメーション『白雪姫(Snow White)』、南北戦争を背景にした『風と共に去りぬ(Gone With the Wind)』、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い(The Wizard of OZ)』などが、次々と評判になり、テンプル物は次第に影が薄くなっていった。


左から:1932年子役全盛時代;1950年引退;1969年政界入り;1990年代各界の役員;2013年受賞多数

テンプル自身も10代となり、往年のあどけなさから抜け出し始め、作品の本数も次第に減り、1950年、22歳で映画界から引退してしまった。その後1958年、芸能界に返り咲き、テレビ番組の司会やゲストにも時々登場していた。

テンプルの中年時代は政界に関与し共和党に属し、ニクソン大統領に指名され国連総会(United Nations General Assembly)の代表委員となり(1969)、アメリカ大使としてアフリカ、ガーナ(Ghana)の米大使館に派遣され(1974~1976)、在任中外交儀礼の長を務め、後に、プラハ市(Plague)、チェコスロバキアの米大使館に転勤し(1989~1992)、業務を遂行していた。

また、ウォルト・ディズニー社(The Walt Disney Company)デル・モンテ食品会社(Del Monte Foods)、その他の企業や、ユネスコ(UNESCO)、ナショナル野生動物保護連盟(National Wildlife Federation)の役員も務めていた。

数々の受賞の内には、ケネディ・センター(Kennedy Center Honors)名誉賞、2005年、スクリーン俳優連盟の生涯達成賞(Screen Actors Guild Life Achievement Award)、などが含まれている。


去る2月10日、85歳で他界した。死因は自然死となっている。遺族には、3人の子達と孫や曾孫がいる。冥福を祈る。     編集:高橋 経

1 件のコメント:

  1. テンプルの全盛時代に私は育ちました。彼女の映画は2本くらい観た記憶がありますが、当時の私はチャップリン、フェアバンクス、ターザン、など男性的な冒険映画に熱中してたので『女の子』の映画には興味がありませんでした。それでも、テンプルの才能は高く評価しています。

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