ジェリー・ハーシュ(Jerry Hirsch)
2013年9月17日付け、ロサンゼルス・タイムズ紙より
豊田英二は豊田一族の一人で、トヨタ自動車の会長としてアメリカ市場の開発に積極的な努力を傾け、先鋒に立ち続けた。去る12日、100才の誕生日を祝った五日後の17日、心臓衰弱で亡くなった。英二は、トヨタ自動車の創立者豊田喜一郎(1894~1952)の従弟に当たる。
豊田英二は1913年9月12日、名古屋市で生まれた。東京帝国大学(現東大)で機械工学を専攻し1936年卒業、直後、豊田自動織機製作所に入社した。その一年後、新設して間もなかった傍系の自動車部門(現トヨタ自動車)に配属された。英二は短時日で自動車製造の工程を習得し、生産工程の計画を立てるなど、現場で先導的な立場で活躍した。先のタイムズ紙のインタビューの中で英二会長は、「トヨタでは一日に40台生産するのがやっとでしたが、フォードでは8,000台という、200倍もの膨大な生産量の開きがありました」と述懐していた。
英二は生産性の専門家オオノ・タイイチを顧問とし、トヨタ自動車の生産工程を根本から改善した。彼らは生産性の効率を高めるため、部品の仕入れを必要量だけに限定し、余分な在庫を減らした。この原則は、ひいては世界中の自動車会社で基本的な基準となった。
豊田英二は1960年、副社長に就任、その7年後には社長となった。彼はトヨタ自動車の責任者として生産とは別に販売と市場拡大という責務遂行の必要に迫られていた。一方で、後年世界のベストセラーとなる運命を担ったカローラ(Carolla)の開発も達成した。
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| フォルクスワーゲン |
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| ランド・クルーサー |
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| カローラ、一時ノヴァだった |
1972年、トヨタ車のアメリカでの売り上げはフォルクスワーゲンを凌ぎ、念願の輸入車第一位を成し遂げた。今年は昨月までの8ヵ月間に、小型車、高級車を含め、トヨタ車は1,500万台を売り尽くした。それは全米市場の14パーセントを占める数字である。
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| (左らら)シボレー、クルツ;ダッジ、ダート;フォード、フォーカス |

1985年4月13日:トヨタ自動車の豊田英二会長(写真の右)とGM会長のロジャー・スミス(Roger B. Smith)が合意し、両社で4億ドル出資し、カリフォルニア州フレモント市(Fremont)にユナイテッド・モーター・マヌファクチュア・インク(the new United Motor Manufacturing Inc.,)なる合併会社を新設した。発足の新車はカローラで、シボレー・ブランドで『ノヴァ(Nova)』と命名された。この新事業は順調に発展したが、2010年、不況によるGMの倒産騒ぎのあおりで閉鎖され、テスラ自動車(Tesla Motors)が引き取った。
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| レクサス |
豊田英二会長は1994年に現役から引退した。彼の息子二人と娘一人は共にトヨタ自動車系の企業で働いている。故人の希望で、葬式は家族内で行うとのことである。






僕は一時ノヴァこと、カローラの宣伝を担当していたことがあります。自動車業界の国際化は混然としていて、驚異的で、目を見張らされます。
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