2013年9月20日金曜日

訃報:トヨタの豊田英二会長


ジェリー・ハーシュ(Jerry Hirsch)
2013年9月17日付け、ロサンゼルス・タイムズ紙より


豊田英二は豊田一族の一人で、トヨタ自動車の会長としてアメリカ市場の開発に積極的な努力を傾け、先鋒に立ち続けた。去る12日、100才の誕生日を祝った五日後の17日、心臓衰弱で亡くなった。英二は、トヨタ自動車の創立者豊田喜一郎(1894~1952)の従弟に当たる。

豊田英二は1913年9月12日、名古屋市で生まれた。東京帝国大学(現東大)で機械工学を専攻し1936年卒業、直後、豊田自動織機製作所に入社した。その一年後、新設して間もなかった傍系の自動車部門(現トヨタ自動車)に配属された。英二は短時日で自動車製造の工程を習得し、生産工程の計画を立てるなど、現場で先導的な立場で活躍した。

織機を発明し製造していた父平吉や伯父佐吉らが創始した豊田自動織機製作所の工場内で育った英二は、機械いじりが好きで熱中した。後年1999年、タイム紙のインタビューに当たって、彼は幼年期を回想し、「機械作りや事業の運営が身近にあった。だから幼い頃からその両方を自然に体得できたのであろう」と語っていた。

英二は幹部社員に昇進し、1945年までにはトヨタの重役となった。とはいえ、第二次大戦による空白時代があったので、1950年あたりまでは先ず企業の復興が急務であった。折しも英二はミシガン州ディアボーン(Dearborn)にあるフォード自動車の工場を見学する機会に恵まれた。この体験は英二にとってもトヨタ自動車にとっても大きな刺激となり、『生産性』、『欠陥車の回避』など自動車製造の根本から洗い直すきっかけとなった。

先のタイムズ紙のインタビューの中で
英二会長は、「トヨタでは一日に40台生産するのがやっとでしたが、フォードでは8,000台という、200倍もの膨大な生産量の開きがありました」と述懐していた。
英二は生産性の専門家オオノ・タイイチを顧問とし、トヨタ自動車の生産工程を根本から改善した。彼らは生産性の効率を高めるため、部品の仕入れを必要量だけに限定し、余分な在庫を減らした。この原則は、ひいては世界中の自動車会社で基本的な基準となった。

豊田
英二1960年、副社長に就任、その7年後には社長となった。彼はトヨタ自動車の責任者として生産とは別に販売と市場拡大という責務遂行の必要に迫られていた。一方で、後年世界のベストセラーとなる運命を担ったカローラ(Carolla)の開発も達成した。

フォルクスワーゲン
それに先立ち、1950年代の半ば、販売に力量をもった神谷正太郎をアメリカに派遣した。当時アメリカでの小型輸入車では、フォルクスワーゲン・ビートル(Volkswagen Beetle)が第一位を占めていた。神谷は帰国後、英二を補佐し、アメリカへの輸出を大目標に市場開発を始め、1958年8月までに輸出を開始した。その車種はクラウン、トヨペット(Crown Toyopet)で、アメリカの高速道路を走るには性能の低い劣性車だった。速度制限以下の時速100キロ走行でも、灼熱の砂漠でもエンジンが過熱する、というお粗末だった。結果として288台を売るのがやっとという惨状だった。

ランド・クルーサー
この失敗で、作戦を変更する必要に迫られた。英二の新作戦として、ジープのような野性的な車、ランド・クルーザー(Land Cruiser)を完成した。その作戦はコロナ(Corona)の完成まで続いた。コロナは依然として小型車だったが、トヨペットの汚名を雪ぐに値いするだけの性能を持っていたので、アメリカ市場で着々と市場を拡大していった。

カローラ、一時ノヴァだった
1960年代の終わり頃には、豊田英二が計画したカローラ(Carolla)作戦が功を奏し、アメリカ市場で「信頼性が高く」「価格が手頃で」「燃費が良い」車、という評判を獲得した。

1972年、トヨタ車のアメリカでの売り上げはフォルクスワーゲンを凌ぎ、念願の輸入車第一位を成し遂げた。今年は昨月までの8ヵ月間に、小型車、高級車を含め、トヨタ車は1,500万台を売り尽くした。それは全米市場の14パーセントを占める数字である。

1973年、第一次のオイルショックで、アメリカの消費者が挙って『経済燃費車』に注目し始め、アメリカの三大自動車会社はあわてて経済小型車を生産し始めた。フォードのフォーカス(Ford Focus)、シボレーのクルツ(Chevrolet Cruz)、ダッジのダート(Dodge Dart)などが輸入車への対抗車であった。
(左らら)シボレー、クルツ;ダッジ、ダート;フォード、フォーカス


1985年4月13日:トヨタ自動車の豊田英二会長(写真の右)とGM会長のロジャー・スミス(Roger B. Smith)が合意し、両社で4億ドル出資し、カリフォルニア州フレモント市(Fremont)にユナイテッド・モーター・マヌファクチュア・インク(the new United Motor Manufacturing Inc.,)なる合併会社を新設した。発足の新車はカローラで、シボレー・ブランドで『ノヴァ(Nova)』と命名された。この新事業は順調に発展したが、2010年、不況によるGMの倒産騒ぎのあおりで閉鎖され、テスラ自動車(Tesla Motors)が引き取った。

レクサス
一般に、経済小型車というイメージを持つ日本車には、高級車というイメージは似合わない、という通説があったが、英二はそれに反発するかのように、大型の高級車の製造を推進し、1989年にはレクサス(Lexus)が誕生した。彼は、レクサスにドイツ製のメルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz)や、BMWと対抗させる意気込みを持っていた。今日、その計画は達成されたようだ。

豊田英二会長は1994年に現役から引退した。彼の息子二人と娘一人は共にトヨタ自動車系の企業で働いている。故人の希望で、葬式は家族内で行うとのことである。

1 件のコメント:

  1. 僕は一時ノヴァこと、カローラの宣伝を担当していたことがあります。自動車業界の国際化は混然としていて、驚異的で、目を見張らされます。

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