数々の受賞を顧みるルーニィ(2011年頃) |
数字で示すミッキー・ルーニィの生涯
- 2歳(17ヶ月)でバーレスクでの初舞台。
- 6歳でMGM映画に初出演。
- 1936年、子役としては破格の週給2千500ドル。
- 17歳から24歳まで、アンディ・ハーディ(Andy Hardy)役で人気を獲得
- そのシリーズが上げた興行収益は7千5百万ドルで、ルーニィ主演の映画は一位を続けていた。
- 1937年~1944年当時の貨幣価値は、入場料が25セント
- 40歳までに1千2百万ドル・スターになったが、ギャンブル、派手な生活、飲酒、競馬馬の投資など出費は収入を上回った。
- この8年間に36本以上の映画に出演した。
- 28歳、少年役で受けた短躯のルーニィにふさわしい役柄がなく、収入が途絶えた。
- ラス・ヴェガスの舞台に立ち週給1万7500ドル稼いだが、その倍の金をギャンブルに注ぎ込み借金が膨れた。
- 40歳代に破産。
- 生涯で200本以上の映画に出演、アカデミー特別賞1回、アカデミー賞候補4回。エミー賞候補5回、内1回受賞。
- 42歳でバーバラ・トマソン(Barbara Thomason)と5度目の結婚、3人目の息子が生まれた。当時の所持金500ドル、借金50万ドル、滞納税金10万ドル。(付記:3年後に離婚したバーバラは、嫉妬に狂った愛人に射殺された。)
- 結婚8回、離婚7回は、エヴァ・ガードナー(Ava Gardner)と1年間の結婚を含む。
- 1978年、8度目の結婚相手はカントリー歌手、ジャン・チァンバリン(Jan Chamberlin)。この頃から断酒、クリスチアンに生まれ変わり、生活が安定した。
- 59歳でブロードウエィの舞台『シュガー・ベィビィズ(Sugar Babies)1979年』に復活出演、3年続いたこのショーで再び脚光を浴びた。
- 1983年、過去60年に及ぶミッキー・ルーニィの芸能人生を賞賛するアカデミー名誉賞が授与された。
- 昨2013年、義理の息子夫妻から『老人虐待』を受けたことの訴訟事件に勝訴し、2千8百万ドル支払われることで和解した。
- 93歳で死亡(1920年9月23日~2014年4月6日)。
スペンサー・トレーシー主演、『少年の町(Boys Town: 1938)』に共演。 |
ルーニィ21歳の誕生日祝い。右はエヴァ・ガードナー、左はMGMのルイス・メィヤー。 |
ジュディ・ガーランドと数本撮った共演の一つ、『ブロードウエーの赤ん坊たち』。 |
エリザベス・テーラーの出世作になった『ナショナル・ヴェルヴェット:1944』。 |
第二次大戦中徴兵され、戦場で兵士達を愉しませるルーニー。 |
短躯というハンディを退け、活発な演技で売ったルーニィ:1957年。 |
落目のルーニィがオールスター映画『It’s a Mad, Mad, Mad, Mad World:1963』でバディ・ハケットと共演。 |
2009年、第二次大戦記念館の開館式でトム・ハンクスと握手するルーニィ。 |
2011年『老人虐待」の聴聞会で自己の体験を陳述。 |
死ぬまで続いた8度目の結婚相手ジャンと二人で安泰な老後。演技は止めなかった。 |
好きな俳優ではなかったが(「嫌い」という意味ではない)これほど力一杯、精一杯演する俳優は古今を通じてあまり見当たらない。特筆に値いする俳優である。
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