ピーター・オツール(Peter O'Toole)
1932年8月2日〜2013年12月14日;享年81才
ピーター・オツールは、アイルランドの製本屋とスコットランド女性の間に生まれた。長じて金髪、碧眼、6尺余りの長身に恵まれ、俳優にはふさわしい人目を惹くカリスマ性に豊んだ存在になった。
オツール扮するローレンス(左)とオマー・シャリフ |
オツールの当たり役は、何と言っても『アラビアのローレンス(Lawrence of Arabia: 1962)』。デヴィッド・リーン(David Lean)監督による、第一次大戦中の実話を基にした4時間近い長編映画であろう。アラブの反抗軍をオツールが扮するイギリス人将校ローレンスが率いて、強大なトルコ軍を打ち破る、というスリルもアクションもたっぷりな歴史的活劇だ。主演男優賞、監督賞などなど、アカデミー賞をたっぷり授与されたこの大作で、オツールの俳優としての名声はいやが上にも最高に達し、その後、『ベケット(Becket: 1964)』、『さようなら、チップ先生(Goodbye Mr. Chips: 1970)』を始めとして続々と話題作に主演した。
華々しいピーター・オツールの経歴の詳細はここでは書き切れないので、専門誌にお任せする。
晩年はやや沈滞し、健康も損なっていたようだ。だが名画と共にピーター・オツールの名は不朽のものである。謹んで哀悼を捧げる次第。
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ジョアン・フォンテイン(Joan Fontaine)
1917年10月22日〜2013年12月15日;享年96才
ジョアン・デ・ボーヴォア・デ・ハヴィランド(Joan de Beauvoir de Havilland)は、1917年、特許専門法律家の父が仕事の関係で住んでいた東京で生まれた。1919年、母リリアン・ルース・デ・ハヴィランド(Lillian Ruse de Havilland)の離婚に伴い、カリフォルニア州サラトガ市(Saratoga)に移り、その再婚した義父ジョージ・フォンテイン(George M. Fontaine)の姓に変わりジョアン・フォンテインとなった。
1932年、15才になたジョアンは東京の父の許へ行き、アメリカン・スクールへ通学した。2年後、女優志願を念頭にロサンゼルスに移った。
『疑惑の影』でケィリィ・グラント(左)と共演 |
実の姉で『風と共に去りぬ(Gone With the Wind: 1938)』でメラニー(Melanie)役を演ずるなど、女優として名を挙げていたオリヴィア・デ・ハヴィランド(Olivia de Havilland)とは、余り親しくしていなかったようだ。個性の違いか、ライバル意識が強かったせいかも知れない。
アカデミー女優賞を受賞(1942年) |
またブロードウエーの初舞台では『お茶と同情(Tea and Sympathy: 1954年)』で、デボラ・カー(Deborah Karr)に代わって主演した。カーが、同名の映画に出演することになったからである。ニューヨーク・タイムズ紙の映画評論家、ブルックス・アトキンソン(Brooks Atkinson)は、「私はカーの方が適役だったと思うが、(フォンテインの演技は)力強く、思慮深い。それにしても、ハリウッド(映画界)とブロードウエー(舞台演劇)の間で行われた俳優交換の談合は、史上最善の処置だった」と絶賛していた。
フォンテインの私生活は、結婚、離婚、再婚を繰り返し、もらい子の家出とか、余り平穏ではなかったようだ。
フォンテインは1994年、『善良なウエンセスラス王(Good King Wenceslasの直訳)』の出演を最後に、映画界から去り、テレビや舞台に登場した。
1978年に書いた自叙伝、『バラの寝台など無い("No Bed of Roses"の直訳)』の中で、「ハリウッド時代を振り返ってみると、傑出した才能ある演技者の胸に去来するものは、華麗さでも、栄光でも、最高の幸運でもなく、『怖れ』の一言に尽きる、ということを私は実感した」と書いている。
記憶に残る名優、懐かしい女優が先週末次々と他界しました。心から冥福を祈る次第。
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