ウイリアム・ブロード (William J. Broad)報告
10月1日付け、NYタイムズ紙より抜粋
物理学者、ハロルド・アグニュー(Harold M. Agnew)が、去る9月29日に亡くなった。
アグニューは、第二次世界大戦中、アメリカ軍部が内密にして焦眉の急だった原爆開発に参加し協力した物理学者の一人で、世界初の原爆が広島に投下された時、別の爆撃機に同乗し、あのキノコ雲(左の写真)を目撃し撮影した。その後、水素爆弾の完成に寄与し、『冷たい戦争(Cold War)』時代には、かの核兵器発祥の地ロス・アラモス国立研究所(the Los Alamos National Laboratory)の所長を務めた。アグニューは、当時の物理学者では最後の生存者だった。
遺族の語るところによると、最近リンパ球白血病と診断され、カリフォルニア州ソラナ・ビーチ(Solana Beach)の自宅で療養中に死亡、享年92才。
アグニュー博士は、アインスタイン博士のように華々しい評判こそなかったが、物理学者としての実績は大きく、不安定で激しい動乱の時代にその専門知識の角度から大統領の顧問を何十年間も務めたタカ派であった。米ソ間の緊張が高かった1992年、モスクワとウクライナのキエフに飛び、壊滅的な戦争を避け、平和を保ち、結果的にはソ連の民主化をもたらす一助を担った。
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アグニュー博士は左から4番目 |
ロス・アラモス国立研究所の現所長、チャーリー・マクミラン(Charlie McMillan)はアグニュー博士について、「人間国宝です。国家は博士に負うところが大きい」と賛辞を惜しまない。
ハロルド・アグニューは1921年3月28日、コロラド州、デンヴァー市で生まれた。スコットランド系の石伐り職の息子で、学生時代にはソフトボール部のピッチャーとして活躍し、デンヴァーの選手権を獲得した。専攻はデンヴァー大学で化学を学び、1942年優秀賞(Phi Beta Kappa)を得て卒業、エール大学(Yale University)の奨学金を獲得した。
だが進学の予定は、極秘の原爆開発計画に関わることによって中断された。1942年の初頭、ノーベル賞受賞者、イタリア人のエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)を長とするシカゴ大学の計画チームに配属されたからだ。それは『ひどい仕事(grunt work)』で、科学的な測定によると膨大量の放射能を浴びることになる作業であった。
そうした健康上危険を避けるため、同大学の一郭に黒鉛レンガで『炉』を築き、その中にウラニュームを積み上げて実験研究を進めることになった。1942年12月2日、アグニュー博士を含む数十名が『炉』の周りに集まり、ウラニュームの連鎖反応を観察した。その原子は予想通り二つに分裂した。その成功が意味することは、人類に光明を与えるか、破壊し潰滅させるかにあった。時に博士は21才だった。
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ロス・アラモス研究所の関門 |
翌1943年3月、アグニュー博士は妻ビヴァリー(Beverly)を伴い、ロス・アラモス研究所に移住した。丈の高い常緑樹がそびえる谷間で、二人は他のカップルと住居を共にした。その夫は毎日三度の食事は欠かさず中国料理をつくる人だった。
そうした環境の中で、博士は原子粒子の加速装置を設置するのを助け、その実験データは、各種爆弾の設計に役立った。
日本軍がアメリカ軍に押され敗退に敗退を続け、大都市が次々と焦土と化していた1945年7月16日、ニュー・メキシコ州の砂漠で初の原爆実験が行われ成功した。アグニュー博士は既に、広島への原爆投下に心の準備ができていた。それまでに多くの友人が戦死していたこともあり、原爆が戦争の終結に役立つと信じていた。その願いも込めて、爆弾の表面に署名をした。
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広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ |
8月6日、リトル・ボーイ(Little Boy)と名付けられた原爆を搭載したエノラ・ゲイ(Enola Gay)と同航する爆撃機B-29に、アグニュー博士は他の科学者二人と共に乗り込んだ。彼らの役割は爆風の強度を測定することだった。その職務とは別に、博士はベル・アンド・ハウエル(Bell & Howell )16ミリ撮影機で、爆撃機の小さな窓から原爆の破壊力と広島の惨状を撮った。古今を通じて核実験から原爆の破壊力全てを目撃した証人は、アグニュー博士だけだったであろう。
戦後1949年、彼はフェルミ博士の元でシカゴ大学で学び博士号を取得した。その後ロス・アラモスへ戻り、ソ連の科学技術分野での能力を査定する調査団に加わった。同年、ソ連が原爆実験に成功し、欧米圏に恐怖を与えた現実に備えることが研究所の新たな課題になった。
1952年に成功した最初の水素爆弾は、65トンという驚異的な怪物だった。その水爆を長距離爆撃行に適する軽量化に、アグニュー博士が大きな貢献をした。
博士は1960年代、ヨーロッパにおける連合国司令官の科学技術顧問として、大統領に直属する対核兵器の防御設備を開発する責任を負った。ロス・アラモスに戻った博士は、ミニッツマン( the Minuteman)大陸間弾道ミサイルの核弾頭やそれに属する武器を開発する兵器部門の部長に任じられた。
1970年には、7千人の所員を抱える同研究所の所長に昇格した。一方で、ロス・アラモス研究所を運営していたカリフォルニア大学の政治的勢力が、博士に『戦争犯罪者』のレッテルを貼り、所長から追放する画策をしていた。
1978年、アグニュー博士は当時のジミー・カーター大統領(Jimmy Carter)に忠言し、核実験の具体的な禁止案に反対する意見を提出した。博士の意見は、そうした東西間の核禁止傾向は、新しい兵器の開発を助長するばかりか、現存する兵器に対する信頼性を失うことにもなり兼ねないという懸念からであった。結果として、ホワイト・ハウスは『禁止』案を撤回した。
所長の地位から引退したアグニュー博士は、核エネルギーの一般利用を推進する道を探求していた。1979年3月、博士はサン・ディエゴに拠点を持つ革新的な原子炉メーカー、ゼネラル・アトミックス社(General Atomics)の社長に就任した。
博士は、1982年から1989年まで、ロナルド・リーガン大統領(Ronald Reagan)の元で、ホワイト・ハウスの科学顧問を務めた。『冷戦』の後1991年、米ソ両国の爆弾製造業者たちの会談に参加し、核兵器の減少への道を追求した。翌1992年博士は、アメリカがロシアが放棄した核兵器用のウラニュームを買い取れば、それによって不安定なロシア経済を救い、核戦争の危険性、事故や盗難の可能性を少なくできると勧告した。その年の8月、ホワイト・ハウスは、最低500トンに及ぶ資源を合意の上、数10億ドルで買い取る計画があると発表した。
かくして、ロシアが放棄した核弾頭用のウラニュームは、希釈され、核戦争を避け、原子炉で電力となり平和的に再生活用されることになった。
ハロルド・アグニュー博士の遺族は、娘が一人息子が一人、孫が四人、ひ孫が三人である。
博士はロス・アラモスに偉大な功績を残した。その証拠の一例に、彼が晩年の頃、時々『ハロルド、戻ってきて(Harold, come back)』という鮮やかなオレンジ色のバンパー・スティッカーを付けた車を見かけたものだ。
(イラストは高橋経著『Seven Lives』の本文から)
アグニュー博士が原子力の平和利用を推進した、とありますが、福島第一の事故を思うと、今こそ考え直す時期ではないでしょうか。その点、小泉元首相の『ゼロ原発』発言には賛辞を惜しみません。
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