2013年7月16日火曜日

マララの願い、国連で

学校(がっこ)つぅぶれて、
寄宿舎(きぃしゅくしゃ)焼(や)ぁけて、
校長(こぉちょ)こぉこらで死ぃねばよい、
すっととん、すっととん

という戯(ざ)れ歌が戦前の旧制高等学校で流行っていた。旧制中学生だった私ら悪童たちも、先輩の感化よろしく尻馬に乗って、口ずさんでいたものだ。受験勉強や宿題に追われていた学生たちは、そうしたバカげた歌を、半ば本気で合唱していたものだった。だが、そのクダラ無い『願い』が、思い掛けず実現してしまったのである。昭和19年4月、中学3年になりたての私たちのクラスが突然閉鎖され、軍需工場へ送られ、職工として働くことになってしまった。

それを遡る昭和16年12月8日、日本海軍の真珠湾奇襲で始まって破竹の勢いで勝ち誇っていた日米戦争が翌17年、ミドウエー海戦での敗北を境に後退の一途をどっていった。働き盛りの成年男子が徴兵されて戦場へ送られ、その人手不足を補う苦肉の策で中学生を穴埋めとした。私たちの心境は複雑であった。戯れ歌の願望通り学業を放棄するのに『お国のため』という大義名分は立ったものの、悪化する戦況への不安は隠し切れなかった。

結果的に、私たちの世代は、勉学最適の年代に、取り返しのつかない空虚な数年を送ってしまったのである。戦後10年余り経ってから、勉学への渇望やむなく、振り出しからやり直したのは私だけではなかったようだ。

だからこそ、勉学を禁止されたパキスタンの少女達の境遇に、腹立たしいほどの同情が禁じられないのである。そして『勉学する』こと自体が、タリバンの脅威に逆らうという危険極まりない状況下で、「全ての少女に教育を、、、」を叫び続けたマララ・ユーサフザイ(Malala Yousafzai)の勇気には無条件で頭が下がる。事実、昨年の秋タリバンの『殺し屋』がマララを殺害、または痛めつけるべく銃弾を放ち、頭蓋を打ち抜いた。
幸い一命をとりとめ、しかるべき医療施設で外科手術を受け、手厚い看護の甲斐あって、恢復した。

この画面をクリックするとマララの演説が視聴できます。16分余

去る7月12日がマララの16才の誕生日、彼女は国連へ招かれて『マララの願い』を演説した。その内容は、世界中の児童の福祉から、無暴力、公民権運動の先達:ガンジー、マザー・テレサ、キングなどへの限りない尊敬、この世界から戦争をなくして平和を、彼女を撃ったタリバンを恨むことなく赦し、そして言うまでもなく世界の少女たちに教育を、とマララ本来の願いを訴え、満場総起立の喝采を浴びた。


バン・キ・ムーン国連事務総長から励まされるマララ。背後に父、横は弟。


マララは演説の締めくくりに次の言葉を強調した。
一人の子供、一人の先生、一冊の本、一本のペンでも、世界を(素晴らしく)変えることができるのです。


編集:高橋 経


付記:昨年マララが撃たれた直後、このブログで『マララの恢復を』祈った。(2012年10月12日公開)その再生:「暴力で幼い少女の願いを抹殺することはできない。マララ・ユスフザイの夢は必ず実現するひたすら、回復を祈る。暴力はその暴力に破れる。」


1 件のコメント:

  1. マララは稀に見る美しい女性だ。その顔には優しさと強い信念と、それを支える純粋さが溢れている。マララの存在は今世紀における奇跡といえるであろう。

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