2013年12月21日土曜日

テン、テン、テンマリ、テン手まり

その日本人女性は「60の手習い」ならぬ60才頃から刺繍(ししゅう)を習い始めた。その技法に魅せられたのか、日本人古来からの伝統遊戯、『手まり』の刺繍に熱中し始めた。爾来30有余年、今年92才になる婦人によって美しく装飾された手まりの傑作は500個を超え、一つとして同じ柄はない独特なデザインばかりである。見事な出来栄えに仕上がった芸術品の数々には、溜め息と共に目を見張らされる。




彼女の作品を発見し、flickr を通して公開したのは彼女の孫娘であるが、残念ながら祖母、孫共に本名が判らない。判っているのは NanaAkuaという仮名だけである。もしどなたかご存知だったらお教えいただきたい。

以下にご紹介する作品は『氷山の一角』に過ぎないが、数え切れない他の作品は flickr でご観賞なさることをお薦めする。 編集:高橋 経















編集註:NanaAkua の検索をしていましたら、同名のアフリカ系アメリカ人が見つかりました。『手まり』とは全く関係のない女性です。

2013年12月17日火曜日

週末の哀悼:俳優二人

ピーター・オツール(Peter O'Toole)
1932年8月2日〜2013年12月14日;享年81才



ピーター・オツールは、アイルランドの製本屋とスコットランド女性の間に生まれた。長じて金髪、碧眼、6尺余りの長身に恵まれ、俳優にはふさわしい人目を惹くカリスマ性に豊んだ存在になった。
オツール扮するローレンス(左)とオマー・シャリフ

オツールの当たり役は、何と言ってもアラビアのローレンス(Lawrence of Arabia: 1962)』デヴィッド・リーン(David Lean)監督による、第一次大戦中の実話を基にした4時間近い長編映画であろう。アラブの反抗軍をオツールが扮するイギリス人将校ローレンスが率いて、強大なトルコ軍を打ち破る、というスリルもアクションもたっぷりな歴史的活劇だ。主演男優賞、監督賞などなど、アカデミー賞をたっぷり授与されたこの大作で、オツールの俳優としての名声はいやが上にも最高に達し、その後、ベケット(Becket: 1964)』、『さようなら、チップ先生(Goodbye Mr. Chips: 1970)』を始めとして続々と話題作に主演した。

華々しいピーター・オツールの経歴の詳細はここでは書き切れないので、専門誌にお任せする。

晩年はやや沈滞し、健康も損なっていたようだ。だが名画と共にピーター・オツールの名は不朽のものである。謹んで哀悼を捧げる次第。

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ジョアン・フォンテイン(Joan Fontaine)
1917年10月22日〜2013年12月15日;享年96才



ジョアン・デ・ボーヴォア・デ・ハヴィランド(Joan de Beauvoir de Havilland)は、1917年、特許専門法律家の父が仕事の関係で住んでいた東京で生まれた。1919年、母リリアン・ルース・デ・ハヴィランド(Lillian Ruse de Havilland)の離婚に伴い、カリフォルニア州サラトガ市(Saratoga)に移り、その再婚した義父ジョージ・フォンテイン(George M. Fontaine)の姓に変わりジョアン・フォンテインとなった。

1932年、15才になたジョアンは東京の父の許へ行き、アメリカン・スクールへ通学した。2年後、女優志願を念頭にロサンゼルスに移った。

『疑惑の影』でケィリィ・グラント(左)と共演
フォンテインの出世作は、1940年のレベッカ(Rebecca)、そして1942年、アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)監督、初期のスリラーで、ケィリー・グラント(Cary Grant)と共演し、アカデミー女優賞を取った疑惑の影(Suspicion: 1941)』が記憶に残る。時にフォンテインは24才であった。

実の姉で風と共に去りぬ(Gone With the Wind: 1938)』メラニー(Melanie)役を演ずるなど、女優として名を挙げていたオリヴィア・デ・ハヴィランド(Olivia de Havilland)とは、余り親しくしていなかったようだ。個性の違いか、ライバル意識が強かったせいかも知れない。

アカデミー女優賞を受賞(1942年)
疑惑の影』以後、数々の名作、駄作、コメディなどに出演したが、観客の記憶に残るものでは、オーソン・ウエルズ(Orson Welles)と共演したジェーン・エア(Jane Eyre: 1944年)、ハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)と共演した、陽の当たる島(Island in the Sun: 1957年)』などが挙げられる。

またブロードウエーの初舞台ではお茶と同情(Tea and Sympathy: 1954年)』で、デボラ・カー(Deborah Karr)に代わって主演した。カーが、同名の映画に出演することになったからである。ニューヨーク・タイムズ紙の映画評論家、ブルックス・アトキンソン(Brooks Atkinson)は、「私はカーの方が適役だったと思うが、(フォンテインの演技は)力強く、思慮深い。それにしても、ハリウッド(映画界)とブロードウエー(舞台演劇)の間で行われた俳優交換の談合は、史上最善の処置だった」と絶賛していた。

フォンテインの私生活は、結婚、離婚、再婚を繰り返し、もらい子の家出とか、余り平穏ではなかったようだ。

フォンテインは1994年、善良なウエンセスラス王(Good King Wenceslasの直訳)』の出演を最後に、映画界から去り、テレビや舞台に登場した。

1978年に書いた自叙伝、『バラの寝台など無い("No Bed of Roses"の直訳)』の中で、「ハリウッド時代を振り返ってみると、傑出した才能ある演技者の胸に去来するものは、華麗さでも、栄光でも、最高の幸運でもなく、『怖れ』の一言に尽きる、ということを私は実感した」と書いている。

2013年12月11日水曜日

奇妙な病原体プリオン

志知 均(しち ひとし)
2013年12月

家畜の牛や野生の鹿にプリオン病原体が発生した
プリオン病原体(Prion disease)という言葉は狂牛病(Mad cow disease)のニュースで出てきたが、もう記憶にない人も多いと思う。しかし、アルツハイマー病(Alzheimer’s disease: 認知症)パーキンソン病(Parkinson’s disease)などの脳神経疾患に関与していると聞けば関心をもたれるかもしれない。バクテリアビールス(ウイルス)とはまったく異なるプリオンとは一体なんだろうか? 

話は1950年代にさかのぼるが、人食い人種として知られるパプア・ニューギニア(Papua New Guinea)フォア族(Fore)の部落民、特に女、子供が一年間に200人以上も原因不明の脳疾患クル病(kuru disease: ビタミンD不足でおきる狗屡病(rickets)とは無関係)で死亡していることが報告された。病原性バクテリアやビールスによる感染の痕跡はなかった。フォア族には病気で死んだ親族の脳組織を食べる習慣があることが人類学者の調査でわかっていたため、脳の中に未知の病原体が存在するだろうと推測された。

パプア・ニューギニア(左)とガジュセック
私は、NIH(National Institute of Health: 国立衛生研究所)に勤務していた1970年頃に、カールトン・ガジュセック(Carleton Gajdusek)のクル病のセミナーをきいてたいへん興味をもった。ガジュセックはインディアナ・ジョーンズのような研究者でニューギニアのジャングルの奥にあるフォア族部落を訪れ,クル病で死亡した患者の脳組織をNIHへ持ち帰った。彼はその組織の抽出液をチンパンジーの脳に注射してクル病が発病することを示した。抽出液中の病原体は確認できなかったが、脳組織の病理所見が、病原体不明のもうひとつの脳疾患であるクロイツフェルド・ジャコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease, CJD)にきわめて類似していることを指摘した。それは脳組織がスイス・チーズやスポンジのようになる病変で、これらの病気はスポンジ型脳障害(spongiform encephalopathies)と総称されている。ガジュセックはクル病その他の研究で1970年にノーベル賞を受賞した。

脳障害の病原体の仮説
スポンジ型脳障害の病因については、遺伝子変異説、免疫説、毒性環境因子説など多様な説が出されたが、いずれも確証されなかった。1982年にカリフォルニア大学のスタンレー・プルシナー(Stanley B. Prusiner)は全く新しい発想から脳障害の病原体は、本来病原性のないタンパク質が特殊な異質構造になった時病原性になるとする仮説を発表した。当時、感染病の病原体はバクテリアやビールスなど遺伝情報因子(DNA, RNA)を持っており、感染により増殖するものとするのが常識であったから、感染性でしかも増殖するタンパク質病原体の仮説はほとんどの研究者に受け入れられなかった。

タンパク質の多い食べ物
プルシナーの仮説を要約すると次のようになる。タンパク質アミノ酸が連鎖になってできるが、その連鎖が折れ曲がって三次構造になって完成する。正常構造の時は問題ないが、連鎖の折れ曲がりに変化が起きて異常構造になると、正常構造ではみられない作用をもつようになる。そのひとつは、正常構造の同類分子をどんどん異常構造に変えてしまう作用で、いわば正常構造への“感染”であり異常構造の“増殖”である。プルシナーはこのような異常構造になったタンパク質を総称してプリオン(prion:PRoteinaceous  Infectious Particle, オンはparticleの意味)と命名した。プリオンについてもう少しわかりやすく説明すると、たとえば、卵の白みに熱をかけるとアルブミン蛋白質が構造変化をして白くなる。アルブミンプリオンにならないから実際には起きないが、かたまりの白みを少量、熱をかけない白みにまぜた時(感染させた時)全体が固まりになる(増殖する)としたらそれがプリン化現象である。その後の研究でプリオン化するタンパク質はいろいろ見つかり、現在ではプリオン説は広く認められている。プルシナーはこの業績で1997年にノーベル賞を受賞した。

顕微鏡下のプリオン病原体
プリオンが何故アルツハイマー病パーキンソン病など加齢性脳神経疾患に関与すると考えられるのか? まず病気の加齢性については次のように説明される。正常構造のタンパク質が異常構造になると、細胞はそれを分解、除去しようとする。しかし加齢とともに異常構造ができやすくなり、その反面それを除去する機能は低下する。徐々にたまった異常構造がある程度以上になると異常構造の増殖がはじまる。少量のプリオンは有害でなくても、量が増えると脳細胞のはたらきを妨げるので病徴があらわれてくる。アルツハイマー病ではベータ・アミロイドとよばれるタンパク質が異常構造になり、かたまって脳神経細胞の外部に沈積してプラック(plaque)を形成する。またタウ(tau)とよばれるタンパク質が異常構造の糸くずのかたまりのようになり細胞内に蓄積する。身体の他の組織でできるのではなく、脳内でプリオンができることはマウスで証明されている。例えば、人工合成したベータ・アミロイドを脳内注射すると徐々に異常構造になって蓄積し6ヶ月後にプラックを形成する。

アミノ酸の構造
パーキンソン病ではアルファ・シニュクレンパーキンとよばれるタンパク質が変異してプリオン状になり脳細胞に蓄積する。ゲーリック病で知られるALS(Amyotrophic Lateral Sclerosis)では活性酸素を分解する酵素が変異して異常構造になり、またハンテイントン病(Huntington disease)ではハンテインテインと呼ばれるタンパク質プリオン状になるといわれている。18世紀に報告された羊の震せん病(scrapie)や、近年さわがれた狂牛病など動物の病気でもプリオンが関係する。ただし注意すべきことは、プリオン化したタンパク質がすべて病気を起こすわけではなく、プリオン構造になっても無害で生理活性をもつタンパク質はいくつか知られている。

現在プリオンが関係すると考えられる病気はほとんどが脳神経疾患である。その理由はまだよくわからないが、可能性として、病原性プリオンになるのは神経細胞の働きに関与するタンパク質が多いからかもしれない。そうであれば神経細胞の固まりといえる脳にプリオン病が起きやすいのが理解できる。しかし何故そのようなタンパク質が必要量以上に脳に溜まってくるのか?脳が大量に必要とする酸素グルコースは血管で運ばれてくる。ヒトの脳には860億の神経細胞があり4億の血管が脳全域を網羅している。血液成分の中には脳細胞の機能に好ましくないものがあるから、それが脳へ入らないようにするための障壁(Blood Brain Barrier; BBB)が血管壁に存在する。加齢、組織損傷、炎症、毒物などが原因でBBBのはたらきが悪くなると血液中のタンパク質が脳の各所へ流入することになる。当然、プリオンになるタンパク質の脳内濃度も高くなる。異なるプリオンが脳内のどこで増えるかによって病名の違う多様な脳神経疾患が現われるのではないだろうか。


赤線で囲まれた部分にプリオンが溜まる
プリオン病対策としては、まず、プリオン化するタンパク質が脳に増えないようにすること、正常構造のタンパク質プリオン化を防ぐこと、またプリオン化したタンパク質を速やかに除去すること、などが考えられる。残念ながらこれらの対策に有用な薬物の開発は実用化のレベルに至っていない。従って生活態度で自己防衛するしかないが、どうすればよいだろうか? 初期の007映画でション・コネリー扮するジェームス・ボンドがデイナーに猿の脳味噌を出されて当惑する場面があったが、たとえ珍味であっても動物の脳の料理は食べないこと、またBBBの機能が低下しないように酒やタバコはほどほどにして、また頭を怪我しないよう気を付けることぐらいだろう。


ともあれ、プリオンの研究がさらに進み種々の脳疾患に有効な治療と予防の方法が開発されることが望まれる。

2013年12月7日土曜日

ネルソン・マンデラ、哀悼と回顧

ネルソン・マンデラ
(Nelson Mandela)
1918年7月18日生まれ、2013年12月5日逝去:享年95才

NY Times紙の記事から抜粋、マンデラ回顧のアルバム


ネルソン・マンデラは1918年、アフリカの寒村で生まれた原住民。当時、南アフリカは少数の白人の統治下にあり、黒人は貧しく差別されていた。マンデラは長じて、黒人解放運動の指導者となり、1964年、危険人物と見なされ逮捕され終身禁固の判決を受けて投獄された。1990年2月、釈放され、解放運動に戻り、1994年、黒人初の大統領に選ばれた。大統領の職務は一期だけで惜しまれながら政界から引退した。近年、健康を損ない、入院、退院を繰り返していたが、去る5日、世界中の人々から悲しまれながら安らかに息を引き取った。マンデラの多事多難な生涯は、常にアフリカ黒人の為に闘争を続けた反逆者、自由解放運動家、そして清廉な政治家であった。


1952年、南アフリカで、同志と共同で初の法律事務所を開いた。

1959年、アフリカ・ナショナル議会を背負って立つマンデラ。婦人に不公平な法律に反抗した。

既成の法律に反抗する背信者として起訴された。一度は無罪になったが1964年に再起訴された。

44才から71才までの27年間、マンデラが過ごした2.5メートル四方の獄舎。便はバケツで。

入獄中マンデラは、同刑務所に投獄されていた他の反抗者たちの指導者であった。

1990年2月、釈放されたマンデラ。右は当時の妻、ウイニィ(Winnie)。

1993年、ヨハネスブルグの住民に演説するマンデラ。この時点で、白人統治に終止符を打った。

マンデラの政策方針は、白人と協調することを基本とし、真っ向からの競合は避けた。

マンデラの大統領選挙キャンペーンに熱狂する大衆。

1994年4月の投票日。順番を待つ選挙民、長蛇の列。62%の票を得てマンデラ当選。

自らも投票するマンデラ。大統領に選ばれたマンデラは5月10日に宣誓した。

「人種差別制度よ、さようなら。二度と起こらぬよう」と書かれた棺を担ぎ、喜びの民衆。

1994年、マンデラ大統領就任式。右は副大統領になったデ・クラーク(de Klerk)。
二人はその年のノーベル平和賞を分ち合った。

1994年2月、曾て入獄していた獄舎を訪れたマンデラ。感無量であったろう。

1995年、先々代のローマ法王ジョン・ポウル二世(John Paul II)を迎えるマンデラ。

ラグビーのワールド・カップ決勝戦で、強豪ニュージーランドチームを破り優勝した南アフリカ。
国民の士気が高揚し喜びあふれるマンデラ。
1995年6月

2003年、旧友の葬式に参列したデスモンド・ツーツ(Desmond Tutu)を迎えるマンデラ。

1998年、グレイサ・マチェル(Graça Machel)と再婚する80才のマンデラ。

2005年、ニューヨークを訪れ、ハーレム少年合唱団のコーラスを聴くマンデラ夫妻。

ヨハネスブルグのショッピング・モール前に建つマンデラの銅像。

2008年、90才の誕生日を祝って集まった孫たちや家族に囲まれたマンデラ。

2011年、マンデラ家を訪れたオバマ大統領夫人ミシェルと娘たちマリア(左端)とサシャ

黒人解放を成し遂げ、安穏な生活に入るマンデラ。2008年頃。



2013年12月4日水曜日

ドン・シルヴァスタインのイラスト

無題(女性の肖像)
ドン』こと、ドナルド・シルヴァスタイン(Donald Silverstein)が亡くなってから早くも10年になります。年が明けて1月30日が10回忌の命日に当たります。生前、ドンの美術的な才能には、二つの面がありました。本質的にドンは抽象的な美を探求する画家でしたが、むしろイラストレーターとして知られていました。ドンは、奥さんのサキコさんの内助の功で絵を描き続けていましたが、死後は、これもサキコさんの努力で、彼の画家としての才能が広く認められるようになりました。

当初から、ドンの遺作集を『画家編』と『イラストレーター編』の2部に分けて発行する計画でした。過去10年近く、ドンの画家としての才能に焦点を当てていましたが、その成果が上がったところで、保留していた『イラストレーター編(下掲)が刊行される運びになりました。今回は、そのご紹介です。ドンの多角的な才能を全てご紹介すると、読者を混乱させることになりますので、折を見ながら、徐々にその才能に触れて戴くことにいたします。
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芝居っ気たっぷりのドンとファッション・モデル
ドナルド・シルヴァスタインは、1932年ペンシルベニア州の炭坑町で生まれた。子供の頃、毎年春には決まって起こる洪水で、警備隊に救出されるのが楽しかったという思い出がある。長じて一家はデトロイトへ移住し、ドンは美術専門の学校で学んだ。卒業後はアート・スタジオで働き、次第に技術を身に付けた。仕事に自信がつき懐が豊かになったドンは、ロンドンに渡り、出版社や広告代理店からイラストの仕事を受け、ポルシェを乗り回し、ロンドンっ子達と呑み歩き、遊び回っていた。

その後帰米、ニューヨークはグリニッチ・ビレッジのロフトにスタジオを構え、優雅な独身貴族を気取り、ボヘミアンの生活を満喫していた。その筋では売れっ子で、ロンドン当時と同じく出版社や広告代理店からイラストの仕事を引き受けていた。

1968年頃、勃然としてニューヨーク生活を罵り、アリゾナ州のサボテンの彼方に隠遁してしまった。これが奇妙な縁でサキコと結ばれたのである。

一旦ニューヨークへ戻ったものの、以後は転々と中近東を含めて世界各地を彷徨い、日本に10年程滞在し、最後はニューヨークへ戻り、健康を損ない、2004年に他界した。

ドンの才能は奔放にして繊細、乱脈にして緻密、その両極端が妖艶に混在しながら調和を保っている。天使と悪魔が融合した鬼才、と私は評価している。編集:高橋 経
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投稿のおすすめ:師走


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発行編集責任者:高橋 経

2013年11月30日土曜日

11月の追悼:千代子、清二(喬)、チコ

11月8日死亡
島倉千代子(しまくら ちよこ) 75才


11月25日(日本時間)死亡
堤清二(つつみ せいじ/筆名:辻井喬つじい たかし) 86才

 [毎日新聞、余録から原文のまま] 「おいしい生活」などのコピーで1980年代消費文化
2011年8月
をけん引したセゾングループだった。1988年には西武池袋店、西武百貨店全体、グループ売上高がそれぞれ業界1位となる3冠王を達成したという
グループの代表だった堤清二さんがビジネスにおける栄光を極めたその当時のことだ。詩人の辻井さんは詩集「鳥・虫・魚の目に泪(なみだ)」を発表した。「きつつきはたたく たたく/たすけを呼ぶ技師のように」で始まる冒頭の作品は次のような言葉を繰り返していた「私ハモウ駄目(だめ)デス モウ駄目デス 駄目デス」。詩集は喪失と挫折(ざせつ)に彩られていたとは当人の回想である(「叙情と闘争」中央公論新社)。詩人の感性は後のバブル崩壊と経営の挫折を予感したのか。時代の運命をそれぞれに負った「堤清二」と「辻井喬」であった若くして西武百貨店を率いた実業家であり、小説「父の肖像」、詩集「群青、わが黙示」などの作品で知られる作家・詩人でもあった堤さんが86歳で亡くなった。「二足のわらじ」とは陳腐(ちんぷ)な言い回しだが、特大のわらじ2足があって初めてなしとげられたこともある堤さんには、三島由紀夫(みしまゆきお)の「楯(たて)の会」の制服調製を自分の百貨店で引き受けたとの逸話(いつわ)もある。それは番外としても、後に企業人で文化人でもある堤さんが一変させたのは日本の企業と文化との関係だった。美術や音楽、演劇など多彩な分野での企業の文化貢献である晩年は「死」と向き合う詩作の中で、「戦死できずに生き残った」という同時代の死者たちへの負い目を記した。二つの生を往還(おうかん)することで、身をもって描き上げた堤さんの「戦後」だった。


11月25日(米時間)死亡
チコ・ハミルトン(Chico Hamilton) 92才

ドラム奏者、バンド・リーダー。クール・ジャズで独自の創作曲を発表し続けてきた。