2014年6月5日木曜日

活動家、ユリ・コチヤマの生涯


ユリ・コチヤマ:1921〜2014

メリー・ユリコは、1921(大正10年)、カリフォルニア州サン・ペドロで、北米移民の魚介類販売業者、中原夫妻の間に生まれた。ユリコは少女時代から、日曜学校で近隣の子供たちの教育にたずさわり、少女たちのグループ活動を指導していた。

また、サン・ペドロ高校の学生組織では、女子学生として初めての副会長を務めたり、テニスを楽しんだりしていた。傍ら、サン・ペドロ・ニュース・パイロット(the San Pedro News-Pilot)にスポーツ記事を投稿していた。この頃から社会事情に関心を抱くようになった。

ジェローム収容所で子供たちを教えるユリ
1941年(昭和16年)12月7日(アメリカ時間)、日本海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、西海岸諸州での日系人排斥の気運が高まった。

翌1942年、同諸州に住む11万人余りの日系人が住居財産を放棄させられ遠隔地の収容所10カ所に撤収されることになった。

中原一家も例外でなく、最終的にアーカンソウ州ジェロームの収容所に送られた。ジュニア・カレッジから中退を余儀なくされたユリコは、収容所内で子供たちの教育にたずさわり、また収容所から志願してアメリカ軍隊に入り戦場へ送られた日系兵士への通信運動も推進した。そうした活動を通じ、ユリコは将来の夫となったビル・コチヤマと知遇を得た。

アーカンソー州ロウワーの収容所跡を訪問、2004年
1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。それまでには日系人収容所は徐々に閉鎖され、解放された『囚人』たちは全国に散らばっていった。

翌1946年の初頭、ユリ(ユリコ)はニューヨークへ移り、ビル・コチヤマと結婚した。この頃から、ユリビルと共に社交を広め、徐々に隣人やコミュニティへの奉仕運動を始めるようになった。二人はその後、6人の子供に恵まれて育てた。

1950年代から、特に黒人の公民権運動が次第に活発になり、それに伴ってユリも日系人として中国人も含め、アジア人への差別解消を掲げて活発に活動を開始した。特に意図していたわけではなかったが、ユリ夫妻は黒人が多く住むマンハッタン北部のハーレム地区に移転した。

1960年代、公民権運動、過激派の筆頭マルコム・X(Malcolm X)に出逢い、知遇を得た。(この興味深いエピソードは別の機会に譲る)これをきっかけに、ユリは公民権運動に関わり、同時に台頭してきたアジア系アメリカ人運動(Asian American Movement)のリーダー格となり、アジア系アメリカ人活動(Asian Americans for Action)に参加し、ヒロシマ記念日(Hiroshima Day events)で演説を行い、ベトナム、沖縄、その他の国でのアメリカ帝国主義を痛烈に批判した。また、ニューヨーク・シティ・カレッジ(the City College of New York)での外国人留学生を支持し、中国人の雇用を促進する声明を発表するなど、活発に活動した。
こうしたユリの活動は、黒人とアジア人、東沿岸諸州と西沿岸諸州、それぞれの運動を結ぶ架け橋となった。

1980年代の初頭にユリは夫のビルと共に、戦時中、日系米人の撤去収容問題とその償還、そして政府の公的な謝罪要求に関わり、首都ワシントンで行われた聴聞会で証言した。

オークランドの自宅で:2005年
2001年9月11日、同時多発テロでワールド・トレード・センターのビル群が破壊され、ブッシュ政権がそれに報復する戦いを計画していた。ユリは第二次大戦中における自身の苦い体験を踏まえてブッシュの『対テロ戦』計画に反対を唱えた。

かくして、ユリ・コチヤマの生涯は、公民権から始まり、人種差別の撤廃から、戦争反対に至るまで、正義と公正を主張し続けた伝説的な奉仕の一語に尽きる。彼女の活動は多くの人々を激励し、若い世代にも強い影響を与えた。

そのユリ・コチヤマが去る6月1日、カリフォルニア州バークレーの自宅で93歳の激しい生涯を安らかに閉じた。




1 件のコメント:

  1. ユリの活動には無条件に頭が下がります。ご冥福をお祈りいたします。合掌

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