2014年6月18日水曜日

異性を魅惑する女性の芳香

フェロモンの話
志知 均(しち ひとし)
2014年6月

梅雨時、夕刻のラッシュアワーの東京で満員電車につめこまれると蒸し暑さと汗臭さにうんざりする。私の友人で、若い女性に囲まれていれば、なんとか我慢ができると言った男性がいた。女性が発散するフェロモン(pheromone)のせいだそうだ。フェロモンとは動物が発散する『香水』のようなものだが、性ホルモンと誤解している人も多い。


ラッシュアワーに電車を待つ乗客:東京新宿駅
  自然界でメス,オスが交情活動をする場合、『におい物質』を放散し合っていることはかなり前から知られていたが、1959年アドルフ・ブテナント(Adolf Butenandt:左の写真)カイコ(蚕)のメスがオスをおびき寄せる物質(長鎖アルコール)を膨大な数のカイコの分泌腺から抽出、結晶化, 同定して、それが確実になった。同じような働きをする物質は多種の昆虫で見つかり、フェロモンと呼ばれるようになった。このよび名はギリシャ語のpherein(はこぶ)horman(刺激する)の合成語で、同種の個体間で行動を起こさせるメッセージを運ぶ低分子化合物を総称する。
カイコ
   フェロモンは昆虫だけでなく脊椎動物、無脊椎動物から微小生物まで、ほとんどの動物から見つけられており、メス、オス間の交情メッセージだけでなく、仲間への危険メッセージ、同族、近親者の認知など、いろいろな目的に使われている。いつかテレビの番組で、南極のある地点に集合して子育てをしている数百頭のペンギンを見せていた。海中から餌をとった親ペンギンは同じように見える多数のベービー・ペンギンの群れの中から自分の子供を素早く見つけだす。親ペンギンは自分の子供の容姿だけでなく特有なフェロモン(体臭)をかぎ分けているのではないかと思った。

  さて、満員電車の中で友人の臭覚が捉えたという、ヒト特有のフェロモンが存在するかどうかは、研究者の間でも賛否が分かれている。研究の成果はともかく、動物の求愛行動におけるフェロモンの役割が誇張され過ぎたため、ヒトは他の動物より高等だから、フェロモンなどに行動を支配されないと信ずる人達の反対が影響しているのではないかと思う。

シカゴ大学の女子学生たち
  ヒト・フェロモン研究の先駆者マーサ・マックリントック(Martha McClintock, 現在シカゴ大学教授)の話から始めよう。1968年大学生だったマックリントックは大学の女子寮に住む135人の学生の月経サイクルを一年間調べて、同室の学生の間では、サイクルが最初の内違っていても、やがて同調する(synchronizeする)可能性が高いことを発見した。この現象は同室の女子学生の体臭の中に含まれる物質(多分フェロモン)によって媒介されると解釈された。ヒトの体臭の原因となる汗の中に含まれる約150種の化合物はいろいろな情報伝達に使われているに違いないので、『月経サイクルを同調させるフェロモン』が含まれていても驚かない。

  ここで、聞きなれない専門語が少し出てくるが、脊椎動物の臭覚について簡単に述べる。鼻にある臭覚神経細胞層には、ヒトの場合約400の受容体があり10,000種類以上のにおいを識別する。におい物質が受容体に結合すると、大脳前葉に隣接する臭球(olfactory bulb)糸状体(glomerulus)へ情報が集まる。この情報は更に臭球の内部にある神経細胞(tufted cell, mitral cell)へ送られ、選別されて大脳皮質へ送られる。これが脊椎動物の主要臭覚系で、このほかに、上部口蓋に鋤骨臭覚器官(vomeronasal organ; VNO)とよばれるもうひとつの器官がある。

  マウス(左)やハムスター(右)で、VNOを除去すると縄張り争いをしなくなるし、メス、オスの求愛行動も低下し交配が減少するので、VNOフェロモンの感知に重要な器官であろうと考えられている。主要臭覚器官がにおい情報を大脳皮質へ送る
のに対し、VNOは皮質をバイパスして、感情に関与する小脳扁桃(amygdala)視床下部(hypothalamus)へ情報を送るので、感情的行動(求愛行為など)をひき起こすことになると思われる。

小脳扁桃:赤い部分

   ヒトにもVNOの機能に必要な遺伝子は存在するが成人では正常に発現せず、VNO機能は失われているといわれる。しかしVNOが完全に失われているかどうか問題は残っている。たとえば、夫婦や兄弟、姉妹の間、幼児と母親の間では、お互いの体臭は、人工香料が共存していても敏感に感知する。ヒトを対象にしたマックリントックの実験では、ヒトのフェロモンの可能性があるアンドロスタジエノン(androstadienone)のにおいを嗅いだグループと嗅がないグループの大脳のMRIを比べると、嗅いだグループでは感情、集中力、視覚などに関係する領域が活発になっている。また別の研究者の実験によると、女性の涙を集
めて、男性に嗅がせると血中テストステロン濃度が減少し、リビドー(libido)も下がるといわれる。これらの事実はVNOが関与していると考えると説明しやすい。

  「女性のにおい」で思い出すのが、1992年のアメリカ映画『Scent of a Woman』。この映画の主人公である盲目の退役軍人フランク・スレード(Frank Slade: Al Pacino主演)は女性に対して憧れと幻想が混じった複雑な感情を抱いている。彼は女性の体臭を嗅げば、その女性の髪の色、眼の色や輝きがわかると信じている。いかに臭覚が良くてもこれは不可能!しかし盲人であるがゆえに臭覚によって女性へのロマンチックな憧れをもつことは理解できる。映画では、スレードがレストランで会った若い女性と体を密着させてタンゴを踊る場面がそれを暗示している。

アンドロスタジエノン:androstadienone
  日常生活には視覚の役割が一番大きいが、臭覚がなくなれば楽しみは激減する。臭覚がなくなる原因として、加齢、臭覚系への病原菌感染、環境汚染因子との長期間の接触, 頭部損傷などが考えられる。最近、アルツハイマー病パーキンソン病、その他の脳神経疾患の患者で臭覚不全が早期症状として現れることが判ってきた。脳神経細胞に異常タンパク質重合体が蓄積して臭覚器官への神経伝達物質の放出が悪くなるのが原因らしい。また逆に臭覚不全が脳神経障害に先行して起きるのかもしれない。


  いずれにせよ、これらの脳神経疾患にかからないためだけでなく、人生のロマンチックな夢を失わないためにも、臭覚不全にならないようお互いに注意しましょう。

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