2013年8月22日木曜日

忘れられていた収容所

真珠湾の奇襲攻撃で日米戦争が始まったのが1941年12月8日、アメリカでは特に西海岸で、子供達も含む日系人移民への不信感が高まっていた。その翌年1942年、12万人の日系人が『危険分子』として全米10ヵ所の収容所に隔離された。その経緯については、このブログで何回か取り上げたし、2册の拙書でも地図入りで著述した。

その事件から70年経った今日、それまでの『10ヵ所』という定説を破って、もう一ヵ所収容所が存在していたことが人類学研究家によって発表された。それによるとアイダホ州クースキア(Kooskia)に小さな日系人収容所が存在していたことが改めて確認された。詳細は以下2つの新聞記事でご紹介する。編集:高橋 経


文化人類学者が発見した、知られざる日系人収容所

ランシング・スティト・ジャーナル紙(Lansing State Journal)と、サン・ルイ・オビスポ紙(San Luis Obispo)に
7月28日付けで掲載されたニコラス・ジェラニオス(Nicholas K. Geranios)記者の報告から抜粋

当時の写真:アイダホ大学提供; AP通信

人里離れたアイダホ州北部の山間に、アメリカ史上殆ど知られていなかった恥ずべき事実の痕跡が発見された。そこには曽ての建物はなく、70年前の事件が記録された遺跡の標識もない。だが、人類学者によってその地点から壊れた陶器(食器?)、薬ビン、絵画などが発掘されたことから存在が明らかになった。それらの遺物は、例の第二次大戦中、政府の命令で日系人を強制的に転住させた最初の収容所であったことの証拠であると判定された。


カリフォルニア州マンザナ(Manzanar)、ワイオミング州ハート・マウンテン(Heart Mountain)、アイダホ州ミニドカ(Minidoka)など、1万人前後を収容していた大収容所のことはよく知られている。だが、このクースキア(Kooskia)にあった小さな収容所のことは地元の住人達ですら知らなかったようだ。


当時の写真:アイダホ大学提供; AP通信
収容人数はたったの250人、最も近い村まで48キロ、ワシントン州スポケーンの東南240キロという遠隔地だ。囚人(?)たちは全てが男性で、険しい山間を通す国道12号線の道路工事で働いていた。比較的新しく渡米した日本人移民たちで、アメリカ市民ではなかった。僅かながら賃金を稼げるということで、他の収容所から『出稼ぎ』にきた者もいたようだ。

今日、アイダホ大学(the University of Idaho)で組織された研究チームによって、その地クースキア収容所が、歴史や世間から「忘れられていない」ことを改めて確認した。同大学、人類学者のスティシィ・キャンプ教授(Stacey Camp)は、「過去に起こって出来事を人々に知ってもらい、同じ過ちを再び繰り返さないようにしたい」と語っていた。

1 件のコメント:

  1. 教授の言葉をお借りいたします。再び同じような誤ちを繰り返さないことですね。

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