2013年8月15日木曜日

デトロイト、破産、自動車、そして


高橋 経 (たかはし きょう)
2013年8月14日
往年の繁栄を偲ばせる外見はそのままに破産したデトロイト市の中心部

デトロイト市の破産

破産の上位6都市
2週間ほど前、デトロイト市が破産の宣告をした。負債の総額は180億ドル(昨今、為替レートは1ドル100円前後だが、実際の貨幣価値とは大きな格差があるので敢えて換算しない)に昇り、70万人余りの市民に影響を及ぼした。この額は、アメリカ史上最大で、過去最高額だったアラバマ州ジェファーソン郡(Jefferson County, Alabama)の負債42億ドルの4倍以上ということになる。

機能しない消火栓
このニュースを聞いた人々は「来るべきものが来た」といのが実感で、現実を知る者にとっては、驚くべき事件ではなかったようだ。その現実とは、◆市内の街灯は半分近くが消えたまま、数え切れないほどの家屋やビルが放棄され窓ガラスは破れ放題、多くの公立小中学校が閉鎖され、過去10年間だけでも、住民4人に一人は市を見限り、職を求めて他州へ移住して去った。60パーセント以上の失業率は当然の成り行きであろう。
廃屋の一郭
無収入による貧困は犯罪を生み、それを取り締まるはずの警察力も予算不足で手が回らないという有様。一例が、事件が発生し緊急電話で警察に通報しても、パトカーが現場に到着するまで平均58分は待たねばならない。市内に設置されている消火栓は、整備されていないから機能するかどうかは保証の限りでない。もし火災が発生したら、焼け放題だ。

破産の影響に直撃されているのは警官を含む市の職員で、減俸から年金支給の不安定さ、など経済的な圧迫は死活問題である。

デトロイト市の繁栄

デトロイト市の中心部、金融企業地区
市の繁栄は1930年当時、自動車産業の勃興が原動力だったことは周知の史実である。1930年というと世界的な経済恐慌の真っ只中であった。19世紀の終わり頃、自動車は一部の富裕層の贅沢品だった。1908年、ヘンリー・フォード(Henry Ford)量産車T型モデルを発表してから、『贅沢品』だった自動車は大衆の『足』という『必需品』という観念に代わって普及し、1927年までに百万台以上を売り尽くし事業として爆発的な成功を収めた。それに刺激され、ゼネラル・モーターズ(General Mortors)クライスラー(Chrysler)も量産車を生産すべく戦略を切り替えた。こうして自動車産業3社が発展し後にビッグ・スリー(Big Three)』と呼ばれ、『デトロイト』が自動車産業のメッカとなったのである。

その後ヨーロッパの動乱で第二次世界大戦が勃発し、中立を守っていたアメリカは自動車の供給で、漁夫の利を得ていた。1941年、日本海軍の真珠湾攻撃により、アメリカは参戦を余儀なくされたが、『ビッグ・スリー』は乗用車の生産を抑えて軍需車両の生産に力を注ぎ、いずれの企業も巨大な利益を上げ、業績は成長を続け、従ってデトロイト市も繁栄を享受していた。この上り坂傾向は、戦後の平和景気と同調し、1950年まで続き、その時点では29万6千種もの職種があり、市の人口は最大の185万人に達した。

デトロイト市の衰退

雑草は茂るにまかせ、廃車、無数の廃屋が残っている
「奢る平家は久しからず」1950年以降、『ビッグ・スリー』は共に企業体質が変わっていった。先ず、それぞれが発展に伴い、デトロイト市以外に支社や工場を増設し、業務が拡散した。それは州外でもあり、メキシコやカナダを含む国外でもあった。合併吸収も随時行われ、各社が『世界一』を目指して競合していた。自動車の『メッカ』であったデトロイト市は、次第に産業の地盤を失っていった。

同時に、UAW(United Auto Workers Union: 自動車労働者組合)の発言が圧力を持つようになり、労働者達の待遇が改善され、彼らの報酬がホワイトカラーのそれを凌ぐようになった。ビッグ・スリーがその負担を軽減するために労働組合がなく賃金の低い外国に活を求め、デトロイト市内にあった工場を閉鎖していった。これがデトロイト市の失業率を高める原因にもなった。


廃屋と茂るにまかせる雑草
この時代における自動車産業のもう一つの特長は、「より大きく、より強力な(車体と馬力)自動車の開発に熱中していたことである。一例が、当初2ドア、クーペで登場した1955年型のサンダーバード(Ford Thunderbird)が1960年代の半ばまでには、大型車に育ってしまったことが挙げられる。他の車種全てが年毎に「大きく、強く」育っていったことは言うまでもない。この傾向は自動車産業のつまずきにつながり、間接的であはあるが、デトロイト市の衰退にも影響したのである。

第一次オイル・ショック

「より大きく、より強力な」自動車はガソリン垂れ流し(gas guzzler)」という陰口がささやかれていた。しかし「安く無限な」ガソリンを使うことに何のためらいもなかったドライバー達は、突然ガソリンが「無限ではない」という現実に直面させられた。1975年のことである。ガソリン・スタンドに車の行列が並び、時には「売り切れ」の憂き目にあうこともしばしば起こった。アメリカ大衆は、改めて燃費経済の如何に敏感になり、それまで軽蔑していたドイツ製や日本製の小型車を見直した。


空きビルの前景と後方に見える市の中心部
当初はそうした消費者傾向を無視していたビッグ・スリーも、着実に売り上げを伸ばしている輸入小型車に脅威を感じ、それに対抗すべく『(米)国産』小型車の生産を始めることにした。といっても、新車の設計を白紙から始め、生産し販売に至るまでには少なくとも5年はかかるのが定石だ。小回りの効かないビッグ・スリーが急造した『小型車』は劣等車に終わった。

こうしたビッグ・スリーの冒した失敗の原因を、自動車専門記者ブロック・イエイツ(Brock Yates)は、著書アメリカ自動車産業の衰退と没落(The Decline & Fall of the American Automobile Industry: 1983年)』で克明に解説している。その内容全てをここでご紹介するのは無理だが、結果論だけ抄訳すると、「1950年当時、世界の自動車総販売量の79.4パーセントを供給していたアメリカ自動車は、1981年までには30パーセントに落ちてしまった」とある。

一昨年(2011年)市の職種はピークの29万6千種から2万7千種に減り、人口はピークの185万人から70万人に減ってしまった。デトロイト市の衰退が自動車産業の衰退と平行していたことは偶然でない。

デトロイト市の財産

膨大な借款を抱え死活を問われているデトロイト市だが、どっこい、まだ生きている。

デトロイト美術館とロダンの『考える人』
  • デトロイト美術館(The Detroit Institute of Art)は、数多くの優れた古今東西の美術品を所蔵しているし、現在でも訪れる観客は引きも切らない。
  • デトロイト交響楽団(The Detroit Symphony Orchestra)は有数な演奏者を抱え、定期的な演奏会を開いている。
  • デトロイト図書館(The Detroit Public Library)の蔵書や古文書は知識の宝庫である。
  • 巨大なコボ・ホール(Cobo Hall)は、伝統的に毎年正月、国際オート・ショー(The International Auto Show)の幕開けを引き受けている。
  • ルネサンス・センターのビル群
      フォード社の三代目会長、今は亡き
      ヘンリー・フォード・ジュニア(Henry Ford Jr.) が、デトロイト市の活性化を悲願して建設したルネサンス・センター(Renaissance Center)、ビル群の偉容は、デトロイトの『顔』である。
    • スポーツでは、野球のタイガース(The Tigers)、フットボールのライオンズ(The Lions)、ホッケーのレッド.ウイングス(Red Wings)、バスケットボールのピストンズ(The Pistons)など、いずれも強豪を誇っている。

    その他、デトロイトの『廃墟』間には、輝く文化的な施設が数多く残っている。

    • ヒット曲の数々を唱った黒人歌手を次々と世界に送り出したモータウン・レコード(Motown Record Co.)もデトロイト市自慢の存在であることを付け加えておこう。


    デトロイト市の活路

    産業復活の鍵は放棄されたビルに?
    市の活路を今更、世界各地に拡散してしまった自動車産業に求めるのは無意味であろう。放棄されたビルの数々、雑草が生い茂る空き地、そして労働意欲が充分な失業者たち。何か新しい産業を始めるなら、こんな理想的な投資のバーゲンはあるまい。今なら土地も建物も二束三文で手に入るであろう。失業者達はただ人並みの生活を望んでいるだけで、多額な報酬は期待していまい。建物の改造に多少の費用はかかるだろうが、新しく建築するよりは安上がりに済むであろう。

    もしそうした条件に興味を寄せる企業が数々名乗り出て実現すれば、風光明媚にして文化的、穏やかにして平和な都市デトロイトが再起し復活するにに違いない。

    1 件のコメント:

    1. デトロイトに移住したのが1984年、もう30年近くなります。いつの間にかデトロイトに郷土愛を感じるようになりました。再起、復活を心から祈っています。

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