その事件から70年経った今日、それまでの『10ヵ所』という定説を破って、もう一ヵ所収容所が存在していたことが人類学研究家によって発表された。それによるとアイダホ州クースキア(Kooskia)に小さな日系人収容所が存在していたことが改めて確認された。詳細は以下2つの新聞記事でご紹介する。編集:高橋 経
文化人類学者が発見した、知られざる日系人収容所
ランシング・スティト・ジャーナル紙(Lansing State Journal)と、サン・ルイ・オビスポ紙(San Luis Obispo)に
7月28日付けで掲載されたニコラス・ジェラニオス(Nicholas K. Geranios)記者の報告から抜粋
7月28日付けで掲載されたニコラス・ジェラニオス(Nicholas K. Geranios)記者の報告から抜粋
当時の写真:アイダホ大学提供; AP通信 |
人里離れたアイダホ州北部の山間に、アメリカ史上殆ど知られていなかった恥ずべき事実の痕跡が発見された。そこには曽ての建物はなく、70年前の事件が記録された遺跡の標識もない。だが、人類学者によってその地点から壊れた陶器(食器?)、薬ビン、絵画などが発掘されたことから存在が明らかになった。それらの遺物は、例の第二次大戦中、政府の命令で日系人を強制的に転住させた最初の収容所であったことの証拠であると判定された。
カリフォルニア州マンザナ(Manzanar)、ワイオミング州ハート・マウンテン(Heart Mountain)、アイダホ州ミニドカ(Minidoka)など、1万人前後を収容していた大収容所のことはよく知られている。だが、このクースキア(Kooskia)にあった小さな収容所のことは地元の住人達ですら知らなかったようだ。
当時の写真:アイダホ大学提供; AP通信 |
今日、アイダホ大学(the University of Idaho)で組織された研究チームによって、その地クースキア収容所が、歴史や世間から「忘れられていない」ことを改めて確認した。同大学、人類学者のスティシィ・キャンプ教授(Stacey Camp)は、「過去に起こって出来事を人々に知ってもらい、同じ過ちを再び繰り返さないようにしたい」と語っていた。